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礼拝メッセージより
悲しい
土曜日の朝7時から、RCC(中国放送)ラジオで「一文字弥太郎の週末ナチュラリスト朝ナマ!」というのがあった。時々聞いていて、5年位前に放送の中で間違ってることがあったのでメール送ったら放送の中で読まれたことがあった。
その1年後位にラジオのニュースで、一文字弥太郎さんがコロナで亡くなりました、というのを聞いてビックリして、例のラジオ番組はどうなったんだろうかと後でネットで探して聞いてことがあった。
その番組を一緒に担当していたアナウンサーは、放送の前の日、金曜日の夜に訃報を聞いたそうだ。パーソナリティーの一文字さんは少し前からコロナで入院していたけれど、当然帰ってくるものと思っていて、亡くなったと聞いて大変なショックで、次の日に放送局に出勤できるかどうかも分からないような状態だったそうだ。7時からという朝早い番組だったけれど、眠れなくてその一文字さんの書かれたエッセイを読んだそうだ。
そのエッセイは21年間そばにいた愛猫が亡くなった時のもので、こんな風に書いてあったそうだ。
「僕にとっては貴品の高いメス猫で、『命令するのは私だから、そばに行ってやるよ、ほらそんなことでいちいち落ち込むんじゃないよ、はい抱っこしてくれ寒いんだよ』、よくそんなことを言われてました、多分。でももういません。悲しいです。今も部屋のドアを開けると泣き声が聞こえてきそうな気がします。
悲しみを乗り越えるときに必要なのは、自分に優しく、悲しさと戦わない、感情を殺さない、無理に決断なんてしない、といろいろありますが、一番必要なのは、悲しいと言える人がいること、たくさんいなくてもいい、一人いれば十分、家族でなくても構わないし、今日出会ったばかりの人だっていい、悲しい時に悲しいと言える人がいることはとても幸せ。そして悲しい時に悲しいと言えたら強い人になれる、そう信じてます。」
一緒に番組を担当していたそのアナウンサーは、そのエッセイに背中を押されて出勤してきたと言っていた。
苦しみ
最後の晩餐を終えたイエスと弟子たちはオリーブ山へ出掛けた。イエスはやがて裏切るであろう弟子たちと一緒にゲツセマネに向かった。ゲツセマネとは「オリーブの油搾り」とか「油圧搾器」という意味の言葉だそうだ。オリーブ山のふもとに油を絞る設備があったことからその名前がついたらしい。
そこでイエスは、ひどく恐れてもだえ始めたと書いてある。命の危険が迫っていることを感じていたということだろうか。
そこでイエスは3人の弟子に「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言ったと書かれている。そして「ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言って少し離れて祈ったと書かれている。
死ぬばかりに悲しいとはどういうことなんだろうか。死ぬばかりに苦しいの間違いじゃないのかと思ったりもするけれど、死ぬばかりに悲しいとはどういうことなんだろうか。
その後イエスはこの杯をわたしから取りのけてくださいと祈ったと書かれている。この杯、つまりこの苦しみ、この先に待ち受けている漠然とした不安と恐怖なのだろうか、それをわたしから取りのけてくださいと祈ったと書かれている。弟子たちにも聞こえるような大声だったのかな。
キリストがどうして苦しむんだろうか。キリストは救い主ではないのか。人間を救うために来たのではなかったのか。人間を苦しみから救うために、苦しみから解放するために来たのではないのか。なのにその救い主がどうして苦しむのか。そんなことでいいのかと思う。
救い主が弱音を吐いちゃいけないんじゃないかと思う。というか何があってもうろたえることなく堂々としていて欲しいと思う。でもどうも実際のイエスはそうではなかったようだ。
これは私たちの祈りというか呻きというか、それと大して変わらないと思う。苦しいことばっかり多いこの世の中で、どうしてこんなことになるのか、俺がなにをしたというのか、どうしてこの俺なのか、どうして、どうして、と言う問いを繰り返し問い続ける。そして苦しみに遭わせないでくれ、この苦しみから救ってくれと祈る。それはまさに私たちの姿でもあると思う。
そしてイエスもそうだったと福音書は語る。イエスがどうして十字架にかからねばならなかったのか。神の力でどんなことでもできたはずではないか。自分を十字架につけようなんていう不届き者を成敗してしまえばよかったんじゃないのか。神ならばそうできたのではないかと思う。それこそが神なんじゃないのかと思う。
でもそうはならなかった。それはイエスが飽くまでも人間であった、人間と同じ高さに立っていた、苦難を前にしても、十字架を前にしても、私たちと同じ人間であり続けたということなのではないかと思う。どこまでも私たちと同じ弱い人間であり続けた。だから苦しみ続け、もがき祈り続けたということなのではないかと思う。
そんなに苦しいなら逃げれば良かったんじゃないのか。そのまま十字架にかけられて殺されるなんてバカじゃないのという気もする。
祈り
イエスが三度祈ったというのは、この杯を過ぎ去らせてくださいという祈りに対する答えがなかったということなのではないかと思う。答えのないままに祈っていた。答えがない、というのがイエスにとっては答えだったのだろうか。そのまま、というのが神の答えだったのだろうか。
苦しい状況を変えてくれるように願って祈っても、なにも変わらないことが多い。そんな時神は祈りを聞いてくれてないんじゃないかと思う。
イエスは、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈ったと書かれている。
3回祈ったことによってイエスは納得できたんだろうか。御心に従うことを受け止めることができたんだろうか。納得できてないから何回も祈ったんじゃないかなと思う。3回祈ったら納得できたんだろうか。
御心のままになんてだいぶ格好良すぎ、本当にそんなこと言ったんだろうかという気もしている。
正直な気持ち
最初に「悲しみを乗り越えるのに一番必要なのは、悲しいときに悲しいと言える人がいること」という言葉をラジオで聞いた話しをしたけれど、これを聞いた時に祈りってこういうことなんじゃないかと思った。悲しいと言うこと、辛いと言うこと、苦しいと言うこと、それを聞いてもらう、それこそが祈りなのではないかと思った。
神の御心を聞いていくとか、受け止めていくとか、それも祈りなのかもしれない。けれどそんな格好いいこと言ってられない、悲しくてたまらない、苦しくてたまらない、その思いを聞いてもらうこと、心の奥底にある正直な気持ちを受け止めてもらうこと、それこそが祈りなのではないかという気がしている。
イエスのゲツセマネの祈りはまさにそんな祈りだったのではないかと思う。自分の苦しさや悲しさをさらけ出して聞いたもらうことで、前に進む力が与えられたのではないかと思う。
そんな経験をしたイエスだからこそ、私たちのいろいろな思いをしっかりと聞いてくれ、受け止めてくれているのだと思う。イエス自身がもだえ苦しむような悲しみを経験した方だから、苦しくてたまらないと祈る経験をした、だからこそ私たちの悲しみ苦しみをしっかりと聞いて、受け止めてくれるのだと思う。
悲しみや苦しみ、また誰にも言えない心の奥底にあるドロドロした思い、醜い思い、惨めな思い、恥ずかしい思い、そんな正直な思いを聞いてもらう、それこそが祈りなのではないかという気がしている。