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礼拝メッセージより
予告
今日の箇所はエルサレムに上る途上で、イエスは三度目の死と復活を予告している場面だ。
エルサレムへ向かう道、それは苦難へ向かう道だった。しかしイエスは先頭に立って進んで行ったようだ。
律法学者やファリサイ派とのいざこざがあるにも関わらず、彼らの総本山であるエルサレムへどんどん進んでいくことに弟子達は驚き恐れたのだろう。こんな状況で本当にエルサレムへ行って大丈夫なんだろうか、どうなるんだろうか、良からぬことが起こるんじゃないだろうか、そんな不安と心配がいっぱいだったのだろうと思う。
しかもイエスは自分は侮辱され、唾をかけられ鞭打たれて殺され、三日の後に復活するなんて言っている。実際イエスが全部このまま言ったとは思えないし、この先何が待っているのかをどこまで分かっていたのかも分からないけれど、苦難が待ち構えていることは覚悟していて、そのことを話したんだろうと思う。
福音書には以前にも自分の死と復活を予告したことがあったことが書かれている。
一回目は8章31節、このときはペテロがイエスをいさめた。ところが逆にサタン引き下がれ、なんて言われている。
二回目は9章31節、このときはすぐ後でだれが一番偉いかと論じあった。
弟子たちにとってはイエスが何をいっているのか、理解できなかったけれど、その後だれがいちばん偉いかと議論し合ったと書かれている。
そして今回が三回目。
弟子たちはイエスの話しや雰囲気と緊迫感から、一体これから何が起ころうとしているのか、自分達はどうなってしまうのかと今後のことが心配になったのだろうと思う。
ヤコブとヨハネが、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせて下さい。」というふうに、イエスが栄光を受けるときに両側にいさせてくれるようにと願ったという。
これに対しイエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」なんて言われる。その後に「この私が飲む杯を飲み、この私が受けるバプテスマを受けることができるか」と聞かれた時にも止せばいいのに「できます」なんて答える。杯とかバプテスマとか言われても彼らには分からなかっただろうと思う。実感もないままに勢いで出来ると答えたような気がする。イエスは彼らをたしなめるようにそれは定められた人々に許されれることだと言った。
これを聞いてほかの弟子たちは、ヤコブとヨハネの二人が自分達だけ良い思いをしようとしていることに腹を立てたようだ。それを見たイエスは弟子たちを呼び寄せて、仕えるものになりなさいとか、僕になりなさいという話しをする。これが今日の聖書の内容だ。
イエスが死と復活を予告した後、弟子たちはそのことを理解できずに、反対にイエスに諫められるようなことをするというお決まりのパターンがあるみたいだ。
不安
弟子たちはいろいろな物を捨ててイエスに従った。親をおいて、仕事を捨て、財産を捨てて従った人たちだった。この人はただ者ではない、きっと輝かしい未来が待っていると思ってついていったのだろうと思う。やがて高い地位に就いて、指導者となってこの社会をリードしていくというような期待をしていたんじゃないだろうか。
ところがそのイエスは、自分は捕まって死刑にされるだろうと言い出す。ちょっと待ってくれ、残される俺たちはどうなるんだ、ということを彼らは考えたに違いない。イエスが自分が殺されると言ったときの弟子たちの反応はそういうところからきているような気がする。
いろんなものを捨ててついてきているのに、あなたに死なれては困るという気持ちなのだろう。
イエスが何を考えているのか分からず、この先何が待ち受けているのかも分からない、そんな不安を少しでも打ち消すために、最後の最後にはいい思いをしたい、高い地位を約束してもらいたい、そうすれば安心できる、この先大変なことがあっても我慢もできる。そんな気持ちがあったのではないか。
偉く
42節以下には仕える者になるようにという話しになっている。
弟子たちはみな偉くなること、人の上に立つこと、というか人よりもいい位置にいることを望んでいたようだ。弟子たちはイエスに従いながらも、人よりも偉くなりたかっただろう。そのためにも自分の師匠が偉くなることがまずは大事だった。権力をもってみんなを支配するようになってもらえば、自分はその人の弟子なのだということで自分も何がしかの力を持ち威張ることもできると思っていたのではないかと思う。権力とまではいかなくても、あの人は立派な人だと言う世間の賞賛を浴びるような者になってくれれば、私はあの人の弟子なんですと鼻高々でいられる。
私にも似たような気持ちがある。偉くなって立派になって、みんなからちやほやされたい、みんなから褒められたいという気持ちがいっぱいある。
仕える者に
ところがイエスはとんでもないことを言う。偉くなりたいものは支配者ではなく仕えるものになれというのだ。
人は自分のために生きている。自分がよければ、というところで生きている。何でも自分のしたいようにしたい、思い通りにしたい、という気持ちを持っているのではないか。そのために一番いい方法は独裁者になることだと思う。独裁者になれればなんでも自分のしたいことができるような気がする。そして何でも自分の思い通りになったらどんなにいいだろうかという気持ちは確かにある。
しかしイエスは仕える者になれと言った。仕える者になるということは、人のために生きるということだ。人を生かすために生きるということだ。イエスは、「おまえのことは俺が引き受けた。全部引き受けた、だからおまえは他の人のために生きなさい」あるいは「私がおまえのために生きた、だからおまえは他の人のために生きなさい」そう言っているのかもしれない。
「私があなたのことを心配している、私はあなたのことを大事に思っている、私があなたを見ている。だからあなたは他の人のことを見なさい、他の人のことを心配しなさい」、イエスはそう言っているのではないだろうか。
無理解
弟子たちはイエスの意図するところをほとんど理解しないままイエスに従っていたということなんだろうと思う。そしてイエスの十字架と死を経験した後に、少しずつイエスを理解していったということなんだろうと思う。
私たちはイエスをどれほど分かっているのだろうか。どこまで理解できているのだろうか。あまり理解できてない気がする。
というか、イエスを理解することよりも、いつも共にいてくれていることを知ること、そしてイエスに愛されていること、大切に思われていること、そのことを知ること、そのことの方がよっぽど大事なことなのではないかと思う。
あなたが大切だというイエスの言葉を聞くこと、それこそが一番大事なことなのではないかと思う。