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礼拝メッセージより
変貌
イエスと3人の弟子が高い山に登っていくとイエスの姿が変わり、衣が真っ白く輝いた、そしてそこにエリヤとモーセが現れ、イエスと語りあったという話しだ。
ここに登場するモーセはユダヤ人をエジプトからカナン、今のイスラエルのある所まで導いて脱出させた人だ。この人は旧約聖書の出エジプト記によると、神から授かった十戒を持って山から降りてきた時に神の栄光を受けて顔が輝き、そのために顔に覆いをかけたなんてことが書かれている。
もう一人のエリヤは旧約聖書に登場する有名な預言者だ。列王紀下2章11節に「彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った」と書かれている。そこでユダヤ人はエリヤは死なないで天に上っていった、そしてやがてまたやってくると言われていたようで、モーセ以降の最大の預言者と考えられてそうだ。
そんな偉大なエリヤとモーセが出てきたので弟子たちは驚き恐れ、ペトロが仮小屋を三つ建てましょうと言った。仮小屋を建てるというのは、出エジプトの出来事を記念する仮庵の祭りを彷彿とさせるような気もする。
旧約聖書では神が高い山とか雲の中にいるようなことが書かれていて、モーセが十戒を授かった時にも山の上での出来事だった。
山というのは旧約聖書の時から神と出会う場所であると考えられているようで、山の上で雲の中から声が聞こえてくる「これはわたしの愛する子。これに聞け。」というのは神の声で神自身がイエスは神の子であるという証言しているということになるようだ。
そののち弟子たちは辺りを見回したが、そこにはイエスしかいなかった。そして山から降りてくる途中、イエスはこのことを復活までは誰にも言うなと命令するという話しだ。
高い山でエリアやモーセが登場してきたり、仮小屋を建てると言ったり、この物語が旧約聖書を舞台として考えられているような気がする。
復活
この出来事は本当にあった出来事なのだろうか。実際にあったことだと考える聖書学者もいるし、そうではなく復活後のイエスとの出会いを生前のイエスに投影した教会の信仰告白と考えている学者もいるそうだ。
僕は以前は、服が真っ白になったり、モーセやエリヤが現れたり消えたり、不思議な話しだけれど、聖書に書いてあるから本当にあったことなんだろうと思っていた。思っていたと言うか、そう思わないといけないと思っていた。でも今は無理にそう思う必要もないというか、無理に本当だと信じる必要もないと思うようになった。
あるいはペトロが幻を見たという可能性もあるけれど、今ではこれはやっぱり教会の信仰告白なのではないかと思っている。イエスこそ神の子である、旧約聖書で約束されていたメシア、キリストである、我らの救い主であるということをこの物語を通して伝えようとしているのだと思う。
この出来事を実際にペトロたちが目撃したとしたなら、つまりイエスこそ旧約聖書に約束されているキリストだと分かったならば、その後イエスの危機が迫ったときに見捨てて逃げはしなかったのではないかと言っている人もいて、確かにそうだろうなと思う。
復活するまで誰にも話すなと言われたとあるけれど、イエスがキリストであると弟子たちが分かったのは復活のイエスと出会ってからだろうと思う。そしてその復活のイエスとの出会いも、イエスの死体が生き返って実際に目の前に現れたというものではなく、心の中に甦った、心の目で見た、そんな心の中での出会いだったのではないかと思っている。
死んだ者が生き返るということは確かにすごいことだけれど、それよりも今自分の心の中で出会うことの方がよっぽどすごいことであるし、余程嬉しいことだと思う。
人間の側
高い山でイエスの服が真っ白になってエリアとモーセと語り合ったなんてことが書かれている。それは何を伝えようとしているんだろうか。イエスの本当の姿はそういうものだということを伝えようとしているのだろうか。
あるいは真っ白い服は人間の願望を表しているのかもしれないという気もしている。イエスは輝かしい姿でいて欲しい、神々しい姿でいて欲しい、そんな願望から弟子たちはそんな幻を見た、けれどもその幻は過ぎ去って見えなくなってしまうものだった。もしかしたらそういうことが言いたかったのかもしれないという気がしている。
そもそもイエスはどんな服を着ていたんだろうか。薄汚れた服だったのかなと思う。福音書を見ているとそれがまさにイエスの姿そのものだったように思う。イエスの姿は神々しく輝いてはいなかっただろう。イエスの服も王が着るような立派な綺麗な服ではなく、ずっと庶民と同じ姿でいたのだろう。
イエスは権力を持たない弱い庶民と同じ側にいた。十字架で死ぬまで弱い人間のままだった。苦しんで絶叫してまでそうだった。
いざと言うときには神の側にいけばよかったのにと思う。私は神だ、というところを見せればよかったんじゃないのかと思う。十字架につけられる前に、あるいは十字架につけられたとしても、そこから降りてきて自分の力を見せればよかったんじゃないかと思う。しかしイエスはずっと弱い人間の側にいた。みすぼらしい姿のままでいた。
昔水戸黄門という、本当は元副将軍という絶大な権力を持っているのに、正体を隠して一般の商人として旅としているというドラマがあった。行く先々で問題に出くわすして解決していくけれど、最後にはかつての副将軍だぞっということでみんなを従わせる、そんなドラマだった。水戸黄門は結局は庶民の側にはいなくなってしまう。
でもイエスはそうではなかった。最後の最後まで人間のまま、弱い人間の側に、弱い弱い私たちの側にいた。
これに聞け
今日の話の中で一番言いたかったのは、これに聞け、ということではないかと思う。これに聞くこと、イエスに聞くこと、それこそが一番大事なことだ、一番すばらしいことだと伝えたいのではないかと思う。
イエスは弱くみすぼらしい姿だったのだと思う。力を奮って相手をたたきのめすことはなかった。十字架で殺されるまで弱いままだった。しかしそんなイエスの語った言葉は弟子たちを支える言葉だった。しっかりと支え力付ける言葉だった。打ちのめされていた弟子たちは十字架の後に改めてイエスの言葉を聞き、その言葉によって息を吹き返したのだろう。それこそが復活のイエスとの出会いであったのだろうと思う。
そんなイエスに聞くこと、それが信仰の始まりだと思う。むしろイエスに聞くことが信仰のすべてでもあるように思う。
お前はお前のままでいい、そのままのお前が大切なんだ、私はどこまでもお前の味方だ、何があっても絶対見捨てない、そんなイエスの言葉を聞き、その言葉に支えられて生きていく、それこそが私たちの信仰なのではないかと思う。