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礼拝メッセージより
言い伝え
先日youtubeを見ている時、あるユウチューバーの娘さんがこの春中学に入学するという話しをしていた。中学に入学するために、制服とか体操服とか靴とかバッグとか、決められたものを購入するために10万円位必要で大変だという話しをしていた。
どうして制服じゃないといけないのか未だに分からない。みんなで同じものを揃えないといけない理由も分からない。学校側も本当に必要だと思っているんだろうか。ずっと続いているのを止められないだけじゃないか、あるいは止めてしまうと制服を作る会社が困るから止められないんじゃないかと思ったりしている。
いちゃもん
イエスのもとにパリサイ人と律法学者がエルサレムから来た。エルサレムとは宗教的な権威の中心地だった。いよいよ中央の偉いさん方の耳にもイエスの噂は届いてきたということだ。自分達の教えを否定するようなやからを懲らしめてやろうというようなことだったのだろう。
彼らが問題にしたのは、イエスの弟子たちが手を洗わないでパンを食べているということだった。昔の人の言い伝えを守らず、汚れたままの手で食事をするのはいかがなものかというわけだ。
ユダヤ人たちは汚れることを怖れていたようだ。旧約聖書には何をすると汚れるとか、いつまで汚れるとか、そんなことが書かれている。そして汚れることは神から嫌われる、断絶されることと考えられていたようだ。そのためにいつどこで汚れるか分からないので、身を清めたり器を洗ったり、念入りに手を洗っていたようだ。市場に行った時は、どこかで汚れた人と触れたかも分からないので、沐浴して身を清めてからでないと食事をしなかったそうだ。
つまりここで弟子たちが手を洗わないで食事をするということは、衛生的なことを問題ではなくて、宗教的な問題であるということだ。
自己矛盾
イエスはファリサイ派や律法学者たちにイザヤの言葉を引用して、あなたたちは自分の言い伝えを大事にして神の掟をないがしろにしていると批判している。
その具体例として、親から頼まれたものがあったとしても、これは供え物だからといえば何もしなくてもいいなんてことになっているじゃないかという話しをしている。
律法を守れ、言い伝えも守れ、なんてことを言っているけれど、言い伝えによって律法を疎かにしていることに気付いていないのかと言っているようだ。あんたたちは律法、律法と言って自分達はいつも守っている、自分達は正しいと言っているけれど、それは口先だけのことになっているじゃないかと言っているようだ。
汚れ
今日の後半のところでは汚れについて書かれている。
イエスは、汚れとは外から人の体に入るものではなく、人の心から出てくるものだと言っている。汚れとはウイルスのように外で感染するようなものではなく、人の心の中にあるものだということだろう。洗ってぬぐえるようなものではないということだろう。
人を批判すること、言い伝えを守らないからと批判すること、それは悪い思いだ、実はそれこそが汚れだ、ということを言っているように思う。
そんな自分の心の中にある汚れ、悪い思い、それをしっかりと見つめなさい、汚れを持っているんだということを知りなさいと言っているようだ。人の心の中にはそんな思いがあるということだろうし、そうするとそんな思いは洗い流すこともできないでずっと持っているということだ。だから汚れを洗い落として清くったと勘違いし人を批判するようなことのないようにしなさい、そう言われているような気がしている。
律法
聖書教育にも成文律法と口伝律法という言葉があったけれど、十戒に代表されるような、文字となっている成文律法と言われるものと、言い伝えとなっている口伝律法と言われるものとがあったようで、イエスが言うように互いに矛盾するようなこともいろいろとあったのだろう。
ではイエスはここで成文律法の方が正しい、成文律法を否定している言い伝えは無視していいと言いたかったんだろうか。成文律法こそ守るべきだと言いたかったんだろうか。
イエスは律法に書かれていることを忠実に守れなんてことは言ってないし、律法に縛られないで生きていたように思う。だから成文律法こそ正しいなんてことをここで言っているわけではないと思う。
そうじゃなくて、律法とは何なのか、律法は何を語っているのか、何のためのものなのか、何を目指しているのか、そのことをしっかりと考えろと言っているんじゃないかという気がしている。
だから律法にこう書いているから、違反してはいけない、違反しているものは罪人だというような、人を裁くためのものではないし、無理矢理守らされるような人を縛るためのものでもないということをイエスは言いたいんじゃないだろうか。
律法とは元々は人を守るためにあったんじゃないかと想像している。これこれをしてはいけないということも、人を守るための戒めだったんじゃないだろうか。それがいつしか枝葉がいっぱい付いてしまって、人を縛るもの、人を裁くものとなってしまっていたんじゃないかと思う。
大事なこと
イエスはファリサイ派や律法学者たちに対して、あんたたちは律法律法といつも口にするけれど、本当に律法が分かっているのか、律法の真髄が分かっているのかと言いたいんじゃないのかなと思う。
イエスは律法で大事なのは神を愛し人を愛することだと言ったことがあった。それは律法にあるから大事だというよりも、人間にとって大事なことが律法の中にもあるということなんじゃないかという気がしている。
イエスは人間にとって大事なことをいつも見つめているような気がする。そのことをずっと伝えてくれているんじゃないだろうか。
そのイエスの声をしっかりと聞いていきたいと思う。