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礼拝メッセージより
後ろから
12年間出血の止まらない病気とは、子宮からの出血が止まらない慢性の病気ではないかと思われる。出血する者はユダヤ教の律法では汚れた者とされ、その彼女に触れた者も汚れるとされていたようだ。ユダヤ教社会の中で宗教行事にも参加できず、社会から除外されるということでもあった。
この女の人は病気の苦しみと社会から疎外されるという苦しみ、そんな二重の苦しみの中に12年間もいたということのようだ。
26節には「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」と書かれている。
どれほど苦しんだのだろうか。当時病気は悪魔、悪霊の働きとも考えられていたそうだ。ここには多くの医者と書いてあるけれど、当時の治療は呪文、まじないによる悪魔払いというようなものだったなんて説明もあった。
次から次へと医者にかかっても、まじないをしても治らない。その度に財産も減っていたことだろう。
今度こそはと期待しても、結局は裏切られるという繰り返しの12年間だったのだろう。期待が大きくなるほど治らなかった時の失望も大きくなる。失望することが繰り返されると次はあまり期待しないようになると思う。だからこの時、この女性はイエスに対してそれほど期待してなかったんじゃないかと思う。
だから彼女は後ろからイエスを追いかけたのだろう。27-28節には「群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである」と書いてある。後ろからこっそりと触ったということらしい。イエスならきっと癒してくれるという確信があったわけではなかったのだろうと思う。触れてみて治れば儲けものというくらいの気持ちだったのではないかと思う。
しかしその瞬間この女の人は病気が癒されたことを感じ、イエスも自分から力が出ていったことが分かったという。
出会い
イエスは誰が私に触れたのかと言いだした。彼女は自分が咎められると思い恐ろしくなったようだ。彼女はこっそり触って、病気が治っても治らなくても、誰にも気づかれずにこっそり帰るつもりだったのではないかと思う
しかしイエスは敢えて彼女を捜し出そうとしているかのようだ。自分の内から力が出ていったことを感じられるのに、それが誰に対してなのかは分からないのだろうか。それとも分かっていたけれど敢えて聞いたのだろうか。
どっちなのか分からないけれど、イエスはその人の病気を癒すことよりもその人と出会うことを大事にしているような気がする。彼女はすべてをありのままに話したという。病気で12年間どれほど苦しかったのかということ、そして今自分の身に起こったことを全部話したのだろう。イエスはそれまでの彼女の痛み、苦しみ、悲しみをじっと聞いたことだろう。
そして彼女に話しかける。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
あなたの信仰があなたを救った、とイエスは言う。彼女はこれを聞いてびっくりしたんじゃないだろうか。後ろから服に触れてみてこっそり治してもらえば儲けもの、というような気持ちだったと思う。自分のしたことを咎められると思ったのに、逆にあなたの信仰があなたを救ったと言われてしまう。
この女性にイエスに対する絶大な信仰とか、必死の信仰があったから、イエスがそれに応えたのかと思ってきた。でも最近はそうじゃない気がしている。
後ろからこっそり触ったということは、治らなくても仕方ない、治れば儲けものという思いだったのではないかと思う。
そんなのは信仰ではない、服に触って治してもらおうなんて、それも後ろからこっそり触るなんて、そんなのは信仰ではないという気がする。
そこには信仰なんていうようなものはなにもないように見える、しかしイエスはその小さな思いをあなたの信仰だ、あなたの信仰があなたを救ったと言ったのだと思う。この女性にとって、それは全く予想しなかった褒め言葉だったんじゃないかと思う。
彼女は長い間病気を患っていて、罪人だとか、穢れていると言われ続けてきたのだろう。生きる力もなくなりそうになっていたのかもしれないと思う。ある人は彼女は死ねないから生きているという状態だったのではないかと言っていた。多分そうだったんだろうと思う。イエスなら必ず癒してくれるなんていう信仰もなく、堂々と治してくれと言う自信もなかったのだろうと思う。12年間の苦しみで彼女はボロボロになっていたんではないかと思う。
けれどもイエスはそんな彼女に、あなたには信仰がある、自分を救う信仰がある、と盛大に褒めたのだと思う。その彼女にイエスは、あなたはすごいんだ、すばらしい人間なんだ、と言っているのだと思う。
罪人だ、穢れている、と除け者にされて元気も自信もなくしていた、ぼろぼろになっていたであろう彼は、イエスのその言葉によって生きる力を与えられたのだろうと思う。
実はイエスのその言葉によって彼女は癒され救われたのではないかという気がしている。
すばらしい
12年間患っていた病気が治ったということは確かにすごいことだ。でもそうやって奇跡的なことが起きたことだけがすごいわけではないように思う。
教会関係でも、私はこんな病気だったけれど癒された、というような話しを聞くこともある。昔はそんな話しに惹かれていた。聖書の神はすごい神だ、本物の神だ、なんて思っていた。
でも最近は、癒されないと駄目なんだろうか、癒されることに意味があるのだろうかと思うようになってきた。もちろん癒されることはとても嬉しいことだけれど、癒されるかどうかよりも、イエスと出会うこと、イエスの言葉を聞くことこそ意味のあることなのではないかと思うようになってきている。
イエスの言葉によって励まされ、安心し、その後の人生を生きていく力を得ること、それこそが大切なことなんじゃないかと思う。そのためにイエスはただ癒すのではなく、わざわざ声をかけたのではないかと思う。
イエスは私たちにも声をかけてくれているのではないか。癒されないかもしれない、病気は治らないかもしれないけれど、癒されないなかで生きていくような、そんな力をイエスは私たちに与えてくれているのではないかと思う。イエスと出会うことで、イエスの言葉を聞くことで、イエスに全てを受け止めてもらうことで、私たちは生きていく力を与えられるのだと思う。
大丈夫、あなたはすごい、あなたはすばらしい、イエスは何の価値もないような私たちに向かっても、いつもそう言ってくれているようだ。その声をしっかりと聞いていきたい。