【礼拝メッセージ】目次へ
礼拝メッセージより
大声?
イエスが再び湖のほとりで教えているとき、例によっておびただしい群衆が集まってきたので、イエスは舟に乗って群衆は湖畔にいた、と書いてある。
おびただしい群衆とは一体何人くらいなんだろうか。またイエスの乗った舟は岸からどれ位離れていたんだろうか。そして舟から湖畔にいるおびただしい群衆に向かって話しをするイエスはどんな声で話したんだろうか。おびただしい人に聞こえるように話しとしたら相当大きな声を出さないといけないと思うけれど、イエスってそんない大声で話したんだろうか。
譬え
それはさておきイエスはここでも譬えを語る。今日のたとえも言っていることは分かりやすいと思う。
第一の種 道ばたに落ちる。いろんな人が踏み固めた道の上に落ちた種は鳥がすぐに食べてしまう。
第二の種 石だらけで土の少ない所に落ちる。岩の上を薄い土が覆っているところ。一見したところは良い土地のように見えるが、すぐ下に岩があるような所。芽は出るが、日に焼かれて枯れてしまう。
第三の種 茨の中に落ちた。芽を出しある程度成長もするが茨にふさがれてしまって実を結ぶまでにはならない。
第四の種 良い地に落ちた。実を結び30倍60倍100倍になる。
当時の種まきは現代とはだいぶ違っていたそうだ。種まきというと、土を耕して畝を作って、少しずつ等間隔に種を蒔いて土をかぶせるようなイメージがある。でも当時パレスチナ地方では、土を耕す前にざっと種を蒔いて後から耕すような仕方だったそうだ。ざっと蒔くので種によっては道端や石地に落ちたりすることがあったようで、この話しは当時の日常の種まきの様子でもあったようだ。
日本語では分からないが、もともとのギリシャ語では第一第二第三は単数で、第四は複数なのだそうだ。つまり一と二と三の種は一粒ずつで、他の多数は良い地に落ちた、と言っていることになる。この種を蒔く人は、目茶区茶に種を蒔いたのではなく、良い土地である畑を中心に種を蒔いているけれど、少しだけ良い土地でない所にも飛んでいったということらしい。
解説
この譬えの説明が13節からのところに出ている。種とは神の言葉であり、それを聞いた人のいろいろな反応であるという解釈だ。
1 道端とは、固い土地。福音をみ言葉を聞いても心の中に入ってこない人のこと。自分の経験やこの世の常識を優先する。「そんなことあるわけがない」「そんなことは今までなかった」「前例がない」
2 石だらけの土地とは、始めは熱心だが外から迫害や弾圧があるとすぐ躓いてしまう。自分に都合の悪いことが起こるとすぐに止めてしまう人。
3 茨の中とは、ある程度成長するが、世の心遣いや富の惑わしが入ってきて、み言葉をふさぐ人のこと。迫害は外からやってくるが、惑わしは人のなかからゆっくりと人間をくさらす。思い患いやこの世への執着によって信仰を捨てる者のこと。
4 良い土地とは、み言葉を素直に受け入れ、迫害や誘惑にも動じないで信仰を守り通す者か。しかし迫害や誘惑に会わない者はいない。迫害や誘惑にあってもそして倒れそうになっても、倒れてもまた立ち上がって心の中にみ言葉を持ちつづける者のことか。
この譬えの説明を聞くと、さて私はどの土地なんだろうかと問う。とても良い土地とは思えない、こんな自分は駄目だと思ってしまう。
イエスはこのたとえで、お前は道端だから、石だらけだから、茨だからだめだと言いたかったのだろうか。
この部分は、言葉とか言い回しなどが他のイエスの言葉とは違うそうで、後々の教会の解釈だと考えられているそうだ。そして実を結ばない種のたとえはマルコの時代の教会が一所懸命に伝道したけれどもなかなか成果が出なかったということを反映しているようだ。
信念
ではイエスが言いたかったことはなんなんだろうか。
種の話はもう少し後にも出てくる。
◆「成長する種」のたとえ
4:26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、
4:27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
4:28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
4:29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
◆「からし種」のたとえ
4:30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
4:31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
4:32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
4章26節以下では、 神の国とは神が人の心に御言葉を蒔いたところ、神の言葉が告げられたところ、そこが神の国だということではないかと思う。
イエスは、それを聞く人にいろんな種類の人がいる、ということを言いたいということではないんじゃないかと思う。道端だけの人も、石だけの人も、茨だけの人も、良い土地だけの人も多分いないだろう。誰の心のなかにも、良い土地も、茨も、石も、道端もあるのではないか。
良い土地に蒔いた種だけが複数だという話しをしたように、中には道端や石地や茨の中に落ちる種もあるかもしれない、けれど多くは良い土地に落ちる、そしてその種は30倍、60倍、100倍の実を結ぶと言われているように思う。
当時の収穫は10倍位が普通だったそうで、100倍なんてのは有り得ないような収穫なのだそうだ。
希望
そんな有り得ないほどの実を結ぶ、神がそんな種を、御言葉を蒔くところ、そこが神の国だと語っているのだと思う。人はそれがどうやって成長するのかも知らない。けれど土に蒔けばどこにあるのかも分からなくなるような小さな種がやがて大きく成長する、そんな神の国がやってきた、イエスはそう言っているようだ。
そしてそれは弟子たちに希望を持って種を蒔くようにと励ましているのかもしれないけれど、それ以上にそれはイエスの信念でもあるような気がしている。イエス自身が、自分が蒔く種はきっと大きく成長する、神が成長させてくれる、そんな希望を持っているということ、そのことを伝えているのではないかという気がしている。
でもそんなに楽観的にはなれないと思うし、世の中そんなに甘くない、そんなに上手くいくわけない、実際そんなになってないじゃないかと思う。
そう思いつつ、希望に溢れたイエスを見上げて生きたいと思う。そんなイエスにしっかりと付いて生きたいと思う。