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礼拝メッセージより
初め
聖書も昔はすっと読み飛ばしていたのに、最近になって気になる言葉がいっぱいある。
神の子ってのも気になる。聖書の神は父と子と聖霊という三位一体であると聞かされてきて、なんとなくそんなもんだと思っていたけれど、実際よく分からない。そもそも神というもの自体よく分かってないのに、その神の子と言われてもよく分からない。
そしてこの初めというのもよく考えると不思議な言い方だなと思う。
新約聖書は基本的に旧約聖書を知っている人向けに書かれていて、旧約聖書になぞられて書かれているところがいっぱいあるということを知った。旧約聖書の預言が成就したと書いているところもあるけれど、そういうことわりもなしに旧約を前提にして書かれているところもいっぱいあるようだ。
初めということばも案外そうかもしれないという気がしている。初めという言葉は旧約聖書の一番初めの創世記の冒頭が「初めに神は天地を創造された」という言葉だ。それになぞらえているような気がする。
ちなみにヨハネによる福音書の冒頭は「初めに言があった」となっている。
どちらも旧約聖書に並ぶような大事な話しであるということを言いたいのではないかと思う。
洗礼者ヨハネ
この福音書は、神の子イエス・キリストの福音の初め、と言う言葉に続いて旧約聖書のイザヤ書を引用して、まず使者を遣わすということが書かれているということを告げる。「預言者イザヤの書にこう書いてある」と書いているが実際にはイザヤ書だけではなくて出エジプト記やマラキ書も引用しているそうだ。使者となる人が現れてその後にキリストが登場するというのは旧約時代から約束されていたことだと言っているわけだ。
当時の人たちはこの使者とはエリヤである、旧約聖書に出てくる預言者のエリヤがまたやってくると思っていたらしい。イエスが十字架で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言った時に、エリヤを呼んでいると思った人がいたことが福音書に書かれているのも、そういう考えがあったからだろう。
そのようにキリストが来る前にまず先に使者が来るはずということはみんなに知られていたようだ。また旧約聖書によれば、エリヤはらくだの毛布を着て、革の帯をしていたと書かれていて、ここのバプテスマのヨハネとそっくりの恰好をしていたらしい。そこからもこのヨハネはまさに旧約時代から約束されていた使者であると告げている。
そしてその使者の後にやってきたイエスが救い主、キリストなのだというわけで、それは旧約聖書に約束されているとおりだ、とマルコは語っている。
罪
そのバプテスマのヨハネが荒れ野で罪の赦しを得させるための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていて、イエスもやってきてバプテスマを受けたと書かれている。
悔い改めないと神の裁きがある、ということでヨハネも悔い改めを説きバプテスマを授けていたようだ。
そもそも聖書で言う罪とは、元々の言葉の意味は的外れということで、本来あるべき状態にないこと、つまり本来神の声を聞いて神に従うべきなのに、そうなっていないことだ。なので聖書でいう罪とは悪いことをしたとか、法律を破ったとかいうことではない。
そして悔い改めるというのも、悪いことをしたことを悔いてもう致しませんと後悔するということではなくて、方向転換をするということだ。神の方を向いて生きていなかった方向を転換して神の方を向く、神の言葉を聞いていなかった生き方から神の言葉を聞いていく生き方に方向転換する、それが悔い改めだ。
今回改めて注解書を見ていたら、この悔い改めるという言葉は「帰っていく」という意味でもあると書いてあった。神の下へ帰っていくというような意味でもあるようだ。以前も読んだはずなのにまるで気付かなかった。
ヨハネはこんなことをしていてはやがて神の裁きがある、とユダヤ教の指導者たちの間違いを指摘したために処刑されてしまうこととなり、ヨハネ教団は解散ということになったようだ。イエスもバプテスマを受けて最初はヨハネ教団に入っていたけれども、やがて独自の道を歩み始めたと考えられているようだ。
イエスはバプテスマのあと、すぐに荒野で40日間、断食してサタンの誘惑にあった、そのとき「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と書いてある、「あなたの神である主を試してはならない」と書いてある、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある、と言って旧約聖書の言葉で答えた、ということがマタイによる福音書と、ルカによる福音書に書いてある。
ところが、福音書の中で一番古いマルコによる福音書は、荒れ野の試みにあったというところは、わずかに2節しかない。えらくあっさりとしか書いていない。
神の国
その後イエスは、時は満ち神の国は近づいた、と言って神の国を宣べ伝えた。洗礼者ヨハネは悔い改めないと神の裁きがあると言って、やがて神が力を発揮するだろうと言った。しかしイエスは違っていた。ある人は「イエスは神の国は近づいたと言って自分から神の国を作り始めた。イエスの言う神の国とは貧しい者や虐げられた者を始め、それまで除け者にされていた人達も含めてみんな一緒に食事をするところだ」と言っていた。
ユダヤ人たちは、何より律法を守ることが正しいことであり、律法を守れないもの、律法により汚れているとされている者を罪人だと言って見下し疎外していた。
しかしイエスはそうやって見下され、罪人だとされていた人達が神に招かれている、神の食卓に招かれている、と主張した。区別や差別、そんな境界線をとっぱらってみんなが一緒に食事をする、まさにそこが神の国なのだ、みんな神に認められている、愛されていると主張した。
それは当時の社会、ユダヤ教社会構造に対する反逆であった。そのためにイエスも処刑されることとなった。
自分でいる
イエスの初っ端の言葉が「悔い改めて福音を信じなさい」と言うことだった。さっきも言ったように悔い改めるとは悪いことを後悔することではなくて方向転換することだ。方向転換して福音を信じるということは、こんな自分は駄目だという思いから、この自分で良いんだという思いに方向転換するということだ。こんな自分は神に裁かれるという思いから、この自分を神は愛してくれているという思いに方向転換するということだ。
昔も話したけれど、インターネットで「内向型を強みにする」という本をダウンロードして読んだ。
その本の最初の所に、エラスムスという人の言葉があった。
『幸福にもっとも重要なのは、喜んでありのままの自分でいられることである。』
「喜んでありのままの自分でいられる」というのはイエスの告げる福音を的確に言い表しているみたいだと思った。
一体どういう人かと思って調べたら、エラスムスという人は哲学者で神学者でカトリックの司祭だったらしい。
イエス・キリストの福音とはこれなんだろうと思う。
その福音をこの先マルコは告げていく。今日の箇所はその序章のようなものだろう。マルコ自身がイエスの生き様やイエスの言葉に触れてそこに福音を感じとってきた、そこに幸福を見いだしてきた、だからそれを伝えようとしているわけだ。
聖書っていつも読まなきゃいけないとか理解しなきゃいけないとか信じなきゃいけないとか、学校の教科書のようなイメージを持っていた。でも最近ではこれは本当のことではないだろうと思うことも多いし、注意深く読まないといけないところもいっぱいあると思う。でもそれ以上にこれを書いたりまとめた人達の感じた感動や喜び、伝えたい思いを感じとることが大事なんじゃないかという気がしている。それを通してこそ私たちはイエスの福音に触れることができるに違いないと思う。
イエスから受け取る福音は人それぞれなんだろうなと思うけれど、ありのままの自分をしっかりと受け止めてくれているイエスがいつも共にいること、それこそが僕にとっての福音だと思っている。