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礼拝メッセージより
復活
16:1「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。」
ユダヤの一日は日没とともに終わる。そして次の一日が日没とともに始まる。
安息日が始まる前の日にイエスは十字架に付けられた。そして「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだのが3時だったと書かれている。15:42「すでに夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であった」。それからあわてて墓に入れられた。遠くから十字架を見守っていた女の人達のことが15章40節に書かれている。その内の二人が墓を見にいったことが47節に書かれている。
墓に埋葬されたのが夕方であったということはその日がもうすぐ終わり、次の日が始まろうとしている時だった。次の日とは安息日で、安息日には労働をしてはいけないとか、遠くまで行ってはいけないという決まりがあったので、日没までには用事を済ませて家に帰らないといけなかったようだ。夕方あわてて埋葬したために遺体の処理を十分にする暇もなかったらしい。そしてそのことを女の人達はとても気にしていたようだ。
そして日没になり安息日が始まった。安息日はいわば労働をしてはいけない日で料理もしてはいけない、言わば沈黙の日だった。マルコによる福音書もその安息日のことは何も書かれていない。15章と16章の間が安息日ということになる。
イエスについてきた彼女たちにとってはつらい沈黙の続く24時間であったに違いない。
彼女たちは事の成り行きをずっと見守っていたことだろう。そして、イエスが十字架で処刑されたことによって、どれほどのショックを受けたであろう。イエスは捕らえられ、事態は思わぬ悪いほうへと向かっていった。そして結局は最悪の結果となった。
しかし彼女たちはそこを去ろうとはしない。処刑されて死んでしまったイエスにも関わり続けようとする。男たちはみんなそこを去ってしまった。彼らはイエスの弟子と言うことで身の危険を感じてもいたのだろう。そのため十字架の近くにはいなかったようだ。しかしこの女性たちは受け入れがたい出来事に直面してもどこか冷静である。芯の強さもあるようだ。
16:1「安息日が終わると」と書かれている。彼女たちはイエスの遺体の処理を早くしなければという思いで、安息日が終わるのを、つまり早く日没にならないかと多分待ちかねていたのだろう。そして日没になり安息日が終わると急いで香料を買いにいったのだろう。日が沈んでから暗くなるまでのわずかの間に香料を買ったようだ。けれどもすぐに暗くなってしまう。
16:2「そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。」そして夜が明けて明るくなるのを待ちわびて墓に向かって行ったのだろう。朝早く起きたのか、それとも一晩中起きていたのかもしれない。
行動
しかし彼女たちにとってまだ大きな問題が残されていた。それは墓の入り口に大きな石があるということだった。恐らく崖をくりぬいたような墓で、入り口に石を置いて扉にしていたのだろう。
その石はとても自分たちの力でどうにかなるような代物ではなかったようだ。その石をどけないことには墓の中に入っていけない。イエスに油を塗ることもできない。彼女たちの計画はまるで実行できない。大きな問題を残したままだったけれど彼女たちは出かけた。大きな問題を抱えてもなお彼女たちは動き出している。
ところが、その問題の石はもうすでにどけられていたというのだ。そのお陰で、彼女たちは墓の中へ入っていった。しかしそこにはイエスの姿はなく、ただ若者がいるだけだった。
その若者が復活を告げる。6-7節「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさってここにはおられない。・・・」なんてことを言う。全く予期せぬ事態に驚く彼女たち。イエスの遺体はなく、変な若者がいただけ、そして思いもよらない訳の分からんことを言われた。彼女たちは、震え上がり、正気を失っていた、そして恐ろしくて誰にも何も言わなかったと書いてある。
復活とは
イエスは復活なさった、と書かれている。原文のギリシャ語では復活させられたと書いてあるそうだ。つまり神によって復活させられたということのようだ。イエスは弱い人間のままで十字架で殺された。絶望の叫びをあげて死んだ。
イエスはその絶望するような状況を自分で振り切って自分の力で復活した、と聖書は言っていない。復活させられたと書かれている。神によって復活させられたと言うことのようだ。そこまでただの人間でありつづけたということか。
イエスがどのように復活させられたのか、よくは分からない。どんな形で復活させられたのかもよく分からない。肉体をもってなのか、それとも幽霊みたいなのか、よくは分からない。しかしよくは分からないが復活のイエスはその後弟子たちに会ったことが福音書に記されている。
そしてそのことから弟子たちは元気になっていった。自分の師匠が十字架で処刑されてしまい、しかもその師匠を見捨てて逃げてしまっていた弟子たちだった。イエスは十字架の上で、神よどうして私を見捨てたのかと叫んだが、弟子たちも同じような思いだったのではないだろうか。ほとんど再起不能、お先真っ暗というような状況だったことだろう。
しかし弟子たちは復活のイエスと出会った。そしてその復活のイエスとの出会いが弟子たちに力を与えた。それは弟子たちにとっての復活と言ってもいいような出来事でもあったのだろう。
ガリラヤで
復活のイエスとの出会いとはどんなものだったのだろうか。
そのヒントとなるような言葉が7節の「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」という若者の言葉だ。
ガリラヤ、そこは弟子たちにとって生まれ育った所、またイエスについて行って活動した場所。かつてのイエスと生活を共にした場所。そのガリラヤでまたお目にかかれるというのは、生前のイエスを知ることが復活のイエスを知ることでもあるということではないかと言っている人がいる。
きっとそうなんだろうなと思う。かつてガリラヤで見たイエスの姿を思い起こし、ガリラヤで聞いたイエスの言葉をもう一度しっかり聞くこと、そうすることでイエスの言葉の意味を改めて知る、それが復活のイエスと出会うということでもあるのだろう。
そしてまたガリラヤは弟子たちが逃げ帰って行く故郷でもあった。師匠を十字架で亡くした弟子たちが、失望のうちに帰って行く場所でもあった。何があっても着いていくと格好良く従っていたけれど、逆に見捨ててすごすごと帰っていく所だった。しかしまさにそこでイエスと会うというのだ。
自分の駄目さを嘆き失望し挫折し、そして人目を避けて逃げ帰って行く所、そこにイエスは先に来てくれている、そこで待ってくれているということだと思う。弟子たちは逃げ帰った時、改めて生前のイエスの姿、イエスの言葉を思い返すことで、イエスの語ってきた言葉の本当の意味を知るようになったのだろうと思う。そこで初めてイエスの本当の姿が見えてきたのだと思う。そしてそれこそが復活のイエスとの出会いだったのだと思う。
いつも共に
私たちは聖書を通してイエスを見つめ、イエスの言葉を聞いている。そういう風にしてイエスと出会うことができる。それが私たちにとっての復活のイエスとの出会いなのだと思う。
イエスは私たちと出会うため、そして共にいるために復活させられた。いつも私たちと共にいるために復活させられた。着飾って、かっこつけて、かしこまっている時だけではなく、挫折して、うちひしがれて、悲しんで、悩んで、生きる力もなくしてしまうような時、そんな時にもイエスは私たちと共にいてくれている。
イエスは私たちが有頂天になって舞い上がる時も、逆に全然うまくいかないでどん底に落ち込むときも、先回りして待っていてくれている。そんな風に、イエスはいつも私たちと共におられるのだ。今、ここにいてくれているのだ。
そして、私たち一人ひとりに、お前が大切だ、お前が大事だ、お前が大好きだ、何があってもお前の味方だと語りかけてくれているに違いない。その声をしっかりと聞いていこう。