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礼拝メッセージより
「いつまでも、どこまでも」 2025年12月7日
夕方
ユダヤでは一日は日没で終わり、そこから新しい一日が始まることになっていたそうだ。
イエスが息を引き取ったのは午後3時過ぎだった。アリマタヤ出身で身分の高い議員のヨセフという人がイエスの遺体を引き取って埋葬したと書かれている。そのためにローマの総督であるピラトに願い出て、ピラトは百人隊長にイエスの死を確認させた上で遺体を引き渡した。
その日は安息日の前日だったとある。安息日は労働をしてはいけないということになっていて、仕事はしてはいけないし、今でもエレベーターのボタンを押すことも労働になるからできないそうだ。料理もしてはいけないというようなことになっていたようだ。そこで前日は安息日の分の料理も準備しておくなんて聞いたことがある。
普通埋葬するときには、遺体を拭いて香油を塗ってから布にくるんで埋葬するそうだけれど、安息日には900メートル以上歩いてはいけないことになっていたらしく、そういったことからヨセフは安息日が始まる日没になる前にあわてて埋葬したようだ。
ヨセフ
このヨセフは身分の高い議員だと書かれている。ということはユダヤ教の最高法院の議員ということだろうか。そうだとすると、イエスがピラトの所へ連れて行かれる前の最高法院での裁判にもいたということだろうか。14:64には「一同は、死刑にすべきだと決議した」と書かれていて、ヨセフもその時には死刑に賛成したということなんだろか。棄権したんだろうか。あるいは反対したけれど押し切られたのだろうか。それとも反対することもできない雰囲気だったのだろうか。
そんな議員が罪人に関わるというのはそうとう異例のことだそうだ。勇気を出してピラトのところへ行ってイエスの遺体を引き取ったと書いてあるように、相当の覚悟がないと出来ないようなことだったようだ。
ヨセフがどうしてそんなことをしたのだろうか。神の国を待ち望んでいたと書かれているけれどそれはどういうことなんだろうか。
百人隊長が、この人は本当に神の子だったと言ったように、イエスの十字架までの姿に何かを感じたのだろうか。
死に様
しかし十字架のイエスには私たちがしばしば思い描く神々しい神のしるしといったものは何もない。全能の神の姿は何もないように思う。
そもそも神とはいったい何なのか、神とはどういうものなのか。いろいろなイメージ、人それぞれに持っているだろう。すごい奇跡をおこす力を持ち、光輝く姿で悪者を懲らしめ世の中の不正を正していく、そしていつもどこか高いところから、私たちを見ている、それが神のあるべき姿、だれもがそんな神のイメージを持っているのではないか。でもそんなイメージにはとても似つかわしくない姿がここにある。私たちの期待に応えるような姿は十字架の上にはない。イエスは絶望の声を上げて息を引き取った。まさに敗北の死の有様といった感じがする。
いつまでも、どこまでも
アリマタヤのヨセフや百人隊長がイエスに感じた神は、高い高い所から人間を見下ろしている神ではない。また人間の都合のいいように、人間の願いを何でも叶えてくれるような神でもないようだ。
一見弱い無力な神である。しかしどこまでも私たちと一緒にいる神だ。
イエスは私たちの所まで来てくれた。同じ高さに立ってくれた。そして苦しみをも味わってくれた。私たちと同じ苦しみを、それ以上の十字架の苦しみを味わってくれた。人に捨てられ、神にも捨てられ、完全に孤独な状況に立ってくれた。最後まで弱い人間として、私たちと同じ弱い者として、苦しみの中にいてくれた。最後まで私たちと同じ所にいてくれた。絶叫するしかないような所まできてくれた。
それは、私たちが苦難に遭い、失敗し、落ち込み、人にも見捨てられ、神などいないと叫ぶとき、しかしそこにもイエスはいてくれているということを表しているのだと思う。私たちが「神よどうして私を見捨てるのか」と叫ぶ時、そこにこそイエスはいてくれているのだ。そんな人生のどん底にもイエスは一緒にいてくれている。それこそが私たちにとっての救いなのだと思う。
私たちの神は、私たちが賛美し感謝する時に一緒にいてくれるだけではなく、私たちが失敗し挫折し落ち込み無力になる時も、祈っても叶わず神も信じられないと思うような時も、祈る事もできず神を呪うような時でさえも共にいてくれる、そんな時にこそ共にいてくれる、そんな神なのだ。
私たちの神はどんな時にも見捨てたりしない。人が皆見捨てても、神などいないと言ったときでも見捨てない。私たちの嘆きを、私たちの叫びを聞いてくれている。そして一緒に嘆き、一緒に苦しみ、一緒に悲しみ、一緒に泣いてくれている。イエスの姿を通して、百人隊長もヨセフもそんなことを感じとったのではないかと想像する。
私たちがどん底に落ち込みただ下を向くしかないような時、その下から私たちを支えてくれる、イエスはそういう仕方で私たちのそばにいてくれる、いつまでもどこまでも共にいてくれるのだと思う。
種
イエスが処刑され埋葬されて、すべては終わり何もなくなったかのようだ。しかしイエスに触れてきた人たちの心の中には種が蒔かれていたのだと思う。十字架を前にした時には悲しみ落ち込んでいるだけだっただろうけれど、そしてその人自身気付いてもいないのだと思うけれど、イエスの希望の種は確実に蒔かれていたのだと思う。
その後イエスの振る舞いやイエスの言葉を思い出すことで、その種は芽を出し成長していった。それこそが復活のイエスとの出会いであったのだと思う。
絶望し真っ暗闇の中にある時、しかしイエスの希望の種は私たちの心の中に蒔かれている、福音書はそのことを告げているのだと思う。