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礼拝メッセージより
暴力
年末によくあるんだが、衝撃の映像なんて言うテレビがある。その中にときどき出てくる映像に、ベビーシッターが子ども、というか赤ん坊をひっぱたくなんてのがある。また同じ番組だったと思うが、アメリカでは白人の警官が交通違反をした黒人をよってたかって暴行するなんてこともあった。何でそこまでできるのかと思うほどめちゃくちゃに殴る蹴るを繰り返していた。ショッキングな映像、とかいうことで放送していたが、こんなのを見るとこんなひどいことをする人間もいるのか、なんて思ってしまう。
また戦争の時にも、殺戮をし、暴行をした。捕虜をめちゃくちゃ働かしたり、捕虜だけではなく、戦争の時には上官が下のものを、気まぐれに殴ったりしたことも聞いた。
完全に弱い立場にあるものに対して人間はそんな態度をとりがちである。何でそんなことをするのかと腹立たしい思いがする。そんな奴のことを憎らしく思う。そしてイエスの周りにも似たような者がいた。
兵士
イエスに対しても、兵士たちは総督の官邸の中にひいていき部隊の全員を集めた。部隊の全員となると600人くらいだそうだ。イエス独りのために600人か。そして「ユダヤ人の王、万歳」といって馬鹿にした。紫の衣は王の衣の代わり、茨の冠は王冠の代わりと言ったところだったようだ。敬礼をしたり拝んだり、また逆に葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけたりして侮辱した。十字架にかけられるものに対してのいつもの仕打ちだったのかもしれない。あるいはイエスに対してはいつにもまして念入りに侮辱したのだろうか。
遊び疲れてか、飽きてしまったからか、兵士は紫の衣を脱がせてもとの服を着せた。日ごろの、指揮官やその上の権力者への不満を、こういう形ではらしているのかもしれない。王様ごっこをしてイエスをいじめることで多少の憂さ晴らしができたということか。
そう言えば最近のいじめでも、いじめている側は、なにかに付けてむかつくと言うそうだ。最近の若い者の口癖でもあるようだ。だからいじめをしてむかつく気持ちをはらすらしい。
兵士たちはそこを通りかかったシモンというキレネ人に十字架を担がせる。張り付けにされるものは自分で十字架の横木を運ばされたそうだが、イエスにはその力も残っていなかったということか。キレネとは北アフリカにある町で、シモンは過ぎ越しの祭りでたまたまエルサレムに来ていたのかもしれない。シモンの子どものアレクサンドロとルフォスは、ここに名前が出てくるということは、後に教会では名の知れた信徒だったと考えられているそうだ。
ゴルゴタ
そしてイエスはゴルゴタという所に連れて行かれる。その丘がされこうべの形をしていたからとか、処刑場でされこうべがごろごろ転がっていたからそんな名前がついたとかいう説があるらしい。そのゴルゴタで、処刑人たちはイエスに没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。これには激しい麻酔効果があり、苦痛を和らげるためのものだったらしい。しかし、イエスはそれを拒否した。あたかも自分の死をだれにも邪魔させない、苦痛を受けることをも邪魔させないためでもあるかのようだ。
十字架のもとで
そして彼らはイエスを十字架につけた。
十字架のもとではくじが引かれる。処刑されるものの服を処刑人が分配する習慣になっていたそうだ。石を投げるくじがあったらしい。争って石を投げ、落ちた先を確かめて着物を奪い合ったのかもしれない。頭上には十字架につけられたイエスがいることも忘れたこのゲームに興じたのだろう。
十字架のもとになにやら暗く冷たいものが渦巻いているようだ。キリストのもとで、神のもとで、人間は思うままに振る舞う。欲望のままに振る舞う。そこは人間の心の奥底があらわにされるところなのかもしれない。
十字架のもとでの兵士たちの姿は、人間の心の奥の有様を見せつけている。
人間は十字架のもとでくじを引き合い、着物を分け合った。キリストの名の下に、神の名の下に人々は争ってきた。そこでは殺し合い、傷つけあうこともあった。自分の欲望を満足させるために、思いのままに振る舞ってきた。
くじを引き合い、争っている、そのすぐ横に十字架は立っている。そこに服をはぎ取られたイエスは、十字架につけられている。人間の暗く冷たい欲望の渦巻く所、そこに十字架は立っている。その下にどんな人間がいても十字架は立っている。
十字架のもとにいる人々の姿は自分の姿そのものだ。人を愚弄し、服を取り合う人々の姿はまるで自分のそのものだ。自分自身の醜さを見せつけられているようだ。自分の心の奥底には兵士たちと同じ思いが渦巻いているように思う。
何もかも自由になるとすれば私たちは一体どんなことをするだろうか。独裁者となって何でもできるとなったときに一体私たちは何をするだろうか。今まで押さえていた欲望が吹き出すのではないか。そして実際私たちはそんな醜い、誰にもいえないような欲望を心の奥底に持っているのだろうと思う。
イエスの十字架はまさにそんな人間の真ん中に立っている。そんな人間のどろどろとした思いの真ん中に立っているのだろう。イエスは人々の過ち、不当な仕打ち、すべてを包み込んで、すべてを飲み込んで十字架についている。イエスはこうまでされてもなおも何もしない。間違いを指摘するでもなく、間違いを正すでもなく、すべてを飲み込んで、すべてをそのままに受け止めて、包み込んで、そして十字架についている。
間違いだらけの私たちの傍らに十字架は立っている。すべてを背負って、イエスは十字架についている。
私たちはそのイエスの十字架を見上げつつ、イエスの声を聞いていく。