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礼拝メッセージより
逮捕
イエスが逮捕される。弟子のユダと、祭司長と長老、律法学者から送られた群衆によって逮捕された。治安維持のためか。あるいは権力維持のためか。表向きは宗教的な理由のためだったが。そのために十分準備し、時間をかけて計画された逮捕劇だったのではないか。剣や棒をもってくるほどの意気込みだった。しかしいとも簡単に捕まってしまった。あっけなくといった感じ。そこで弟子たちはみんな逃げてしまった。
イエスは大祭司のところへ連れて行かれる。そして裁判にかけられる。いわゆる宗教裁判ということだ。すぐ前の所を見ると、イエスが「この杯をわたしから取りのけてください」と祈っていた時に弟子たちが眠りこけてしまったと書かれているところから、イエスが連れて行かれた時にはすでに夜中になっていたと思われる。
そして53節以下に裁判の様子が書かれている。夜中なのに最高法院の面々は集まっている。つまりこの時間に裁判を始めるということがあらかじめ決められていたということだろう。だから何が何でもこの時間までには捕まえていないといけなかった。真夜中に、物々しい警備の中で、こっそりと行われたのだろう。しかし何でまた真夜中にあわてて、こっそりとしたのか。自分たちが確たる証拠もなく「ねたみ」のためにイエスを捕まえているという後ろめたさがあったのか。そして昼間に騒ぎを起こすとローマ当局から何があったのかと聞かれると面倒だという気持ちがあったのか。
ユダ
ユダはどうしてイエスを売ったのだろう。やっぱりイエス自身に失望していたんだろうか。イエスが強い国を再建するという期待を持っていたけれど、とてもそうではないと分かったからなんだろうか。
ところで接吻を合図にしたと書かれている。合図をしないと捕まえる人物が分からないということは、イエスを捕まえに来た群衆はイエスのことを知らなかったということなんだろうか。
ユダはこれ以降登場しない。マタイによる福音書ではイエスが有罪になったので首をつって死んだと書いてあるけれど、他の福音書にはない。
接吻を合図にしたということを福音書をまとめたマルコはどうやって知ったんだろうか。ユダは他の弟子たちの誰よりも後悔して、後々この時のことを他の弟子たちに話したのかもしれないと思う。
見捨てた
ユダが裏切り者だと言われることが多いけれど、ここに書かれているように裏切り者はユダだけじゃなく弟子たちみんなだった。イエスが捕まえられた時、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」とさりげなく一文書かれている。仕事も家族も捨てて人生をかけてイエスについていったであろう弟子たちだったが、師匠が捕まってしまうとみんな師匠を見捨てて逃げてしまった。
自分の身の危険を感じて逃げたのだろう。相手は権力者なのだ。自分を守るためにとっさに逃げたのだろう。
51-52節にはイエスについてきていた一人の若者のことが書かれている。このことは他の福音書には書かれていない。これが誰なのかいろんな説があるそうだ。あるいは福音書を書いたマルコ自身ではないかという説もある。兎に角弟子も若者もみんな逃げたということだ。弟子たちはみんな裏切り者となったということだ。
逃亡
どうして福音書にこんなことが書いてあるんだろうか。師匠を見捨てて逃げたことなんて知られたくないんじゃないかと思うけれど。
そんなことみんなで隠しておけば、後の教会には誰にも知られずに済んだことじゃないかと思う。福音書にも書かれているということは弟子たちがそのことをみんなに話していたということなんじゃないかと思う。
実はそうやってイエスを見捨てて逃げたことが、実は弟子たちの基盤になっているんじゃないかと思う。
それまでは、俺は立派な弟子だ、立派な師匠の愛弟子だなんて思っていたのかもしれない。死んでもあなたについていきます、なんて思っていたようだし、誰が一番偉いかともめたことも書かれている。そんな強く立派な弟子を目指していたのだろうと思う。
しかし自分の師匠をこともあろうに見捨てて逃げてしまった。誰が一番だなんて言ってられない情況になってしまっている。死ぬまでついて行く、なんて偉そうなことを言ったけれど、現実はまるで違ってしまった。
いざというときに、師匠が一番大変な時に見捨ててしまうという、そんな自分の駄目さを、不甲斐なさを、だらしなさをいやというほど思い知らされる出来事だったのだろうと思う。
平穏無事な時には偉そうなことばかり言ってたくせに、いざとなったら我先にと逃げてしまうという、なんとも情けないふがいないそんな自分の実体を思い知らされて、弟子たちはみんな打ちのめされたことだろう。
出会い
でも、打ちのめされていたであろう弟子たちは、そこから改めてかつてのイエスの行動やイエスの語った言葉を思い出し噛みしめていったのだろうと思う。自分の不甲斐なさを知ることで、そこで初めてイエスの言葉の意味を理解していったのではないかと思う。
イエスが弱く小さな者たちに寄り添って生きてきたこと、彼らを愛し神の愛を伝えていたことを思い出し、実は自分達こそそんな弱く小さな者であったことを知ったのではないか。そこで改めてイエスの愛、イエスのすごさを知ったのではないかと思う
ふがいない、だらしない、臆病な、そんなことも全部含めて、そんな自分をイエスは包み込んで支えてくれていることを知ったのではないだろうか。弱いだらしない面も全部含めて、そんな自分をまるごと受け止めてくれていること、認めてくれていることを知ったんだろうと思う。だからこそ、彼らはもう一度立ち上がっていけたんだろう。
強さも弱さも、表も裏も何もかも含めて全部を知られていて、そして見捨てたという負い目も傷みも含めてそんな自分を全て支えられ愛されている、弟子たちはそのことを知ったから、その後命がけでイエスを伝えていったのだろう。
そして弟子たちは自分達の裏切りを語り伝えてきたんだろうと思う。だから弟子たちがイエスを見捨てて逃げたことも教会に伝えられ、福音書にも書かれているんじゃないかなと思う。
弱さと醜さの上に
この裏切りの上に教会は立っているような気がしている。教会は立派な堅い信仰心の上にではなく、また罪を赦された清い心の上にではなく、大事な人をも裏切ってしまう弱さや醜さや傷みの上に立っているのだと思う。そんな弱さや醜さや痛みをまるごと包み込んでいる神の熱い思いによって立てられているのだと思う。
イエスはそのように私たちの全てを包み込み愛してくれているのだ。この情けない醜いだらしない弱い私たちを愛してくれているのだ。全くありがたく嬉しいことだ。