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礼拝メッセージより
苦しみ
今日の聖書箇所では苦しみもだえるイエスが登場する。
キリストがどうして苦しんだりするんだろうか。キリストは救い主ではないのか。人間を救うために来たのではなかったのか。人間を苦しみから救うために来たのではないのか。なのにその救い主がどうして苦しむのか。そんなことでいいのかと思う。
救い主が弱音をはいちゃいけないんじゃないかと思う。何があってもうろたえることなく、堂々としていて欲しいと思う。でもどうも実際のイエスはそうではなかったようだ。
最後の晩餐を終えたイエス・キリストと弟子たちはオリーブ山へ出掛けた。そしてその時に弟子たちに、あなたがたは皆わたしにつまずくと言ったという。するとペトロが、みんながつまずいてもわたしはつまずきませんと言ったけれど、逆に今夜鶏が鳴く前に三度私を知らないと言うだろうと言われ、それでもペトロは、死ぬことになっても知らないなどとは言わないと答えたことが書かれている。
しかしイエスはやがて裏切るであろう弟子たちと一緒にゲツセマネに向かった。ゲツセマネとは「オリーブの油搾り」とか「油圧搾器」という意味の言葉だそうだ。オリーブ山のふもとに油を絞る設備があったことからその名前がついたらしい。
そこでイエスは、ひどく恐れてもだえ始めたと書いてある。命の危険が迫っていることを感じていたということだろうか。
そこでイエスは3人の弟子に「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言ったと書かれている。そして「ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言って少し離れて祈ったと書かれている。
死ぬばかりに悲しいとはどういうことなんだろうか。死ぬばかりに苦しいの間違いじゃないのかと思ったりもするけれど、死ぬばかりに悲しいとはどういうことなんだろうか。
その後イエスはこの杯をわたしから取りのけてくださいと祈っている。この杯、つまりこの苦しみ、この先に待ち受けている漠然とした不安と恐怖なのだろうか、それをわたしから取りのけてくださいと祈ったと書かれている。
これは私たちの祈りと大して変わらないと思う。苦しいことばっかり多いこの世の中で、どうしてこんなことになるのか、こんな苦しみにあわせないでくれ、どうしてこの俺がそんなことにならねばならないのか、どうして、どうして、と言う問いを繰り返し問い続ける、そして苦しみに遭わせないでくれ、この苦しみから救ってくれと祈る。それがまさに私たちの姿だろうと思う。
そしてイエスもそうだったと福音書は語る。イエスがどうして十字架にかからねばならなかったのか。イエスが神であるのならば、そんな死刑になんかならなくてもいいではないか。神の力でどんなことでもできたはずではないか。自分を十字架につけようなんていう不届き者を成敗してしまえばよかったのに。神ならば、そうできたのではないかと思う。
どうしてそうしなかったのだろうか。それはイエスが飽くまでも人間のところにいた、人間と同じ高さに立っていた、苦難を前にしても、十字架を前にしても、私たちと同じ人間であり続けたということなのではないかと思う。どこまでも私たちと同じ弱い人間であり続けた。だから苦しみ続け、もがき祈り続けたということなのではないかと思う。
でもそんなに苦しいなら逃げれば良かったんじゃないのか。何もしないで十字架にかけられて殺されるなんてバカじゃないのという気もする。
祈り
イエスが三度祈ったというのは、この杯を過ぎ去らせてくださいという祈りに対する答えがなかったということなのではないかと思う。答えのないままに祈っていた。答えがない、というのがイエスにとっては答えだったのだろうか。そのまま、というのが神の答えだったのだろうか。
苦しい状況を変えてくれるように願って祈っても、なにも変わらないことが多い。そんな時神は祈りを聞いてくれてないんじゃないかと思う。しかし実はそれが神の答えだと言うことなのかもしれない。
イエスは、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈ったと書かれている。御心のままに行ってくださいと言いつつ、それでもまた祈っている。自分の願い通りにはならない、御心のままに、神の計画の通りに、と頭では分かってはいる、けれども祈らないではいられない、ということだったのだろうか。
三回祈ったことによってイエスは納得できたんだろうか。御心に従うことを受け止めることができたんだろうか。納得できてないから何回も祈ったんじゃないかなと思う。御心のままになんてだいぶ格好良すぎ、本当にそんなこと言ったんだろうかという気もしている。
悲しいと言える
「悲しみを乗り越えるのに一番必要なのは、悲しいときに悲しいと言える人がいること」という言葉を聞いた。
数年前に亡くなったラジオのパーソナリティーの人の言葉だそうだ。毎週放送しているラジオ番組を一緒に担当していたアナウンサーは次の放送がある前の晩に訃報を聞いたそうだ。そのパーソナリティーが少し前からコロナで入院して治療していて、当然回復して帰ってくるものと思っていたそうで、亡くなったと聞いて大変なショックで次の日に放送局に出勤できるかどうかも分からないような状態だったそうだ。朝早い番組だったけれど、眠れなくてそのパーソナリティーの人のエッセイを読んだときに、翌日の放送をしなければいけないと思ったそうだ。
そのエッセイの中にあったのが、「「悲しみを乗り越えるのに一番必要なのは、悲しいときに悲しいと言える人がいること」という言葉だったそうだ。
これを聞いた時に祈りってこういうことなんじゃないかと思った。悲しいと言うこと、辛いと言うこと、苦しいと言うこと、それを聞いてもらうこと、それこそが祈りなのではないかと思った。
神の御心を聞いていく、受け止めていくことも祈りなんだと思うけれど、そんな格好いいこと言ってられない、悲しくてたまらない、苦しくてたまらない、その思いを聞いてもらうこと、その気持ちを受け止めてもらうこと、それこそが祈りのような気がしている。
イエスはそんな思いをしっかりと聞いてくれている、受け止めてくれていると思う。何よりイエスがもだえ苦しむような悲しみを経験した方だから、苦しくてたまらないと祈る経験をした方だから、だからこそ私たちの悲しみ苦しみをしっかりと聞いてくれる、受け止めてくれると思う。だから私たちは誰にも見せられない心の奥底にあるドロドロした思い、醜い思い、惨めな思い、恥ずかしい思いを聞いてもらうことができる、それこそが祈りなのではないかと思う。