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礼拝メッセージより
主の晩餐
主の晩餐についてはコリントの信徒への手紙一11章23-26節にこう書かれている。
「 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」
「これはわたしの体である」とはいったいどういうことか。つまりこれは私自身を食べなさい、私自身をあなたがたに与える、ということなのだろうか。自分の命をおまえたちに与えるというような意味なんだろうか。
また杯も同じように「この杯は多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言っている。旧約時代から血に命があると考えられていたようで、そう考えるとこれも自分の命をおまえたちに与えるということなのかなと思う。
そしてその後イエスは十字架につけられ、血を流した。それはあなた達のために体を与え、あなた達のために血を流すのだ、あなた達のために私は十字架につけられるのだということを前もって言っているかのようだ。
かつて出エジプトの際に、神の裁きを通り過ごすために小羊の血を鴨居に塗ったことがあった。また旧約時代には自分の罪の身代わりとして、犠牲の動物を殺してささげていた。旧約時代から続いていた贖いの供え物という考えに則って、イエスは十字架の死を迎えたということなんだろうか。
この発言はいかにもそういう風に聞こえるけれど、そうなんだろうか。
有言不実行
そのすぐ後で「あなた方は皆私につまずく。」とイエスは言われたことが書かれている。
「たとえ、みんなのものが躓いても、私はつまづきません。」なんて、さらに「あなたと死ななければならなくなっても」とまで。すごい自信、あるいはすごい情熱だったのだろうか。自分たちの先生が一大決心をしてなにかをしようとしている、ただごとではないと感じてついていかねばという意気込みだったのだろうか。あるいは自分を鼓舞する、奮い立たせるような発言だったのだろうか。
有言実行だったらかっこいいけれど、有言不実行ってのは一番恥ずかしいことだと思う。
教会の中に信仰偉人伝なんて本がある。あれ見ていると、みんな勇猛果敢、疑うことなんてまるでなく、全幅の信頼を、疑いのない信心をもっている、といった風に書かれている。そしていろんなことに挑戦していって成果を出しているなんてことがよく書かれている。それが本当かどうかわからないが、そんな立派な姿が書かれている。立派だった部分だけが書かれているのかもしれないが、ということはそんな姿を求めている、そんな姿こそが偉人の姿だという考えがある、ということだろう。
そんな立派なことを書いている本はいっぱいある。だから私たちもそのような人を目標にして、なんてことを思うこともある。しかしそんなことを思っても、結局は私はだめだった、となってしまうことが大半、である。私にはそんな信仰はない、私はそんなことはできないだめな信仰者だ、落ちこぼれだ、と思う。
でも聖書は立派なペテロさんのことを書いてはいない。聖書は何ともだらしない、挫折を繰り返している人間のことを書いている。聖書には躓いたり転んだりの人間ばっかりだ。
教会は、なにがあろうと躓かない人の集まりではない。どんなたいへんなことが起ころうと信仰を立派に守り抜いた人の集まりではない。一度も躓いたことのない、神を一度も疑ったこともない人の集まりではない。
弟子たちは躓いてばかり、疑ってばかりの人たちだった。とても信仰深い人たちではなかった。ところがその人たちが教会を建てあげていった。というよりもその人たちを通して神は教会を造っていったと言った方がいいのかな。
教会は最初からそんな人の集まりだった。いざとなったら逃げ出すような人の集まりだった。神はそこに教会をつくった。なかにいる人間の質が問題ではない。そこの神がいるかどうかが問題なのだ。
ペテロはいろんな失敗を重ねてきた。心の中にいろんな痛手を負った。自分のだめさをいやというほど知ったことだろう。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決してもうしません。」なんてかっこよく言ったのに、後でこそこそと逃げだしてしまった。しかもそのことを福音書に書かれるほどにみんなに知れ渡ってしまっている。
ペトロは偉そうなことを言ったくせに全然できていない、有言不実行な男という汚名を背負って生きていたのかもしれない。
イエスはペトロの言葉を聞いた後何も答えなかったのだろうか。何も書かれてないということは何も答えなかったということなんだろうか。何も答えないで、有言不実行なペトロをそのまま受け止めたということなのかなと思う。
そしてペトロは後々、その自分を見捨てることなく、そのままを受け止めてくれているイエスの偉大さを知ったのではないだろうか。
ネットでこんな言葉を見た。
『昔上司から言われたことを思い出す。
「有言実行、有言不実行、不言実行、不言不実行だったら、お前は有言実行の次にいいのは不言実行だと思っている。でも、できなくても何も言われない不言実行より、たとえできなくてもやると宣言する有言不実行の方がすごいんだ」』
確かにそうだなと思った。ペトロさんは駄目な弟子の代表のように思う節があるけれど、本当はもっともっとペトロさんを見習った方がいいような気がしてきた。