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礼拝メッセージより
過ぎ越し
最後の晩餐、主の晩餐、十字架につく前の晩の食事。そしてそれは過越の食事。
エジプトで苦しんでいたとき、神がイスラエルの民をエジプトから脱出させたとというのが過ぎ越しの由来だ。エジプトの初子はみんな死んでしまった。しかし鴨居に羊の血を塗っていたイスラエルの人の家はその災いが過越していった、それまでのいろいろな災いに対しても、イスラエルの民を去らせなかったエジプトの王も、この災いによって、とうとう去らせた、そのことを記念して年に一度過ぎ越の祭りの時には、かつてと同様にイースト菌を入れないパンを焼いて、小羊を殺してその肉を食べた。
イエスの最後の食事がちょうどその過ぎ越の食事となった。年に一度の特別の食事がイエスの最後の食事となった。そしてそれはイエスと12弟子との食事だった。そこには弟子たちが12人そろっていた。そこにはイエスを裏切るユダもいた。ユダはその時すでにイエスを裏切ることを決意していた、と聖書は語っている。その機会を待っていたということか。
ユダはいったいどんな気持ちでそこにいたのか。
そしてイエスはどんな気持ちでそこにいたのか。食事の最中に、この中に自分を裏切るものがいる、とイエス自身が語っている。イエスにはユダが裏切ることが分かっていたということだろうか。
ならば、どうして裏切ろうとしているユダといっしょに食事をするのか。食事の前に指摘すればよかったのではないのか。裏切り者とわざわざ食事をしてもおいしくないのではないかと思う。気のあった仲間だけで食事をした方が断然うまい。ひとり変な奴が混じっているだけでその場の雰囲気も変わってしまい、食事もまずくなることもある。裏切り者はさっさと追い出しといて、大事な食事を気分良く、また厳粛に食べたいと思わなかったのか。そもそもそんな楽しむような食事ではなかったということなんだろうか。
キリストの弟子は12人で、その内のひとりがキリストを裏切った、12人足す1、つまり13は、だから縁起の悪い数字である、なんてことを聞いたことがある。さらに、イエスが十字架につけられたのが金曜日だから、13日の金曜日は不吉な日である、なんてことをいう人がいる。とにかく13は悪い数字、ということになっている、キリスト教ではそうだと思っている人が多いらしい。
そして裏切り者の名前がユダだというのも結構有名な話のようだ。ぼくも教会に行く前から知っていたと思う。ユダというのは裏切り者の代名詞、になっているみたい。教会の中でもユダとはイエスを裏切った悪い弟子、というイメージがあるように思う。だから何でこの最後の晩餐の席にユダもいっしょにいるのかと思うわけだ。
ちなみにマタイの福音書ではユダがお金のためにイエスを売ったようなことが書いてあるけれど、マルコによる福音書ではユダがイエスを引き渡そうと思って祭司長たちのところへ行って、そのことを喜んだ祭司長たちが金を与える約束をしたとなっていて、お金欲しさにイエスを引き渡したわけではないようだ。
それはそうとして、しかしこのユダだけを悪者扱いしてしまって本当にいいのか。実は他の弟子たちも、みんなイエスを捨てて逃げてしまった、と書かれている。なにもユダだけが悪役だったわけではない。いやユダだけは後で悔い改めてイエスに従わなかったから悪いのだ、ということも聞いたことがある。でも本当にそんなに簡単に言ってしまっていいのだろうか。
イエスは、あえてユダを食事の時に同席させたのかもしれない。だから食事の時になって、裏切りの話を始めたのだ。ユダをあえて食事の席に着かせた、あえていっしょに食事をしようとした。その場に引きずっていった、と言った方が正確かもしれない。イエスはどこまでも、最後の最後までユダを自分のもとにおいておこうとしたのだ。自分からユダを捨てることをしなかった、最後の食事にまでユダを自分の弟子として接した。たとえ自分を裏切ろうとしていても、自分の命を売ろうとしていても、ユダを捨てなかった。
ユダだけが特別ではないのだろう。弟子たちはみんなイエスを見捨てて逃げてしまっている。しかしイエスはそんな弟子たちと一緒に最後の食事をしたということだ。
生まれなかった方が
イエスはユダについて、この人は生まれなかった方が良かった、と言ったそうだ。なんと残酷なことばだろうか、と思う。この言葉を聞いて、あまりにひどすぎると言った人がいた。本当にそう思う。そこまで言われるほどユダは悪者だと言うことになってしまいそうだ。生まれなかった方が良かった、なんて言われたらまともに生きていけない。
親からそんなことばを聞かされた子どもは不幸だ。そんなことばを聞かされたために、いつも不安で、あれた人生を送っていく人がいることを聞いたことがある。生まれなかった方が良かった、なんてのはとつてもなく重いことばだ、何でイエスはそんなことを言ったのか。
しかし親が自分の言うことを聞かない子どもに向かって言う言い方とは違うなと思う。親が子供に言うときには大抵、お前なんか生まなければ良かった、という言い方になりそうだ。親がそういう場合には自分にとって、おまえなんかいなかった方が良かった、と言う言い方になる。おまえがいたから私は迷惑しているんだ、ということになる。
しかしイエスは生まれかなった方が世の中のために良かった、とは言っていない。おまえが生まれなかった方が私のために良かったとも言っていない。生まれなかった方が本人のために良かった、と言っている。親が腹を立てて子どもに憎まれ口を言うのとはわけが違うようだ。では生まれなかった方がその者のために良かったとはどういうことなんだろうか。
「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」というように、苦しいことばかりが多いと思う。しかし生まれなかった方が良かったとはなんと悲しいことばだ。まわりのものにとって生まれなかった方が良かったのではないかというようなことならば分かる気がする。何人もの人を殺した人などは生まれなかった方が世のためかもしれない。しかしそれとて必ずしもその人だけの責任ともいえない。
では生まれなかった方が本人のために良かったとはいったいどういうことなのか。悲しみも苦しみも経験しない方が良かった、と言うことなんだろうか。師匠を裏切るという重荷を背負うのはあまりにもつらいことだから、それならいっそ生まれなかった方が良かったと言うことなんだろうか。やっぱりよく分からない。
まさか
一緒に食事をしているものの中に、イエスを裏切るものがいると聞いて、弟子たちは皆、まさかわたしのことではと言い始めた。誰もが思い当たる節があったということなんだろう。
弟子たちはイエスが社会を変革するような偉大な先生になること、誰からも賞賛されるような偉大な王になること、権力を持って社会をリードしていく指導者になること、そんな期待を持っていたのかもしれない。
ところが現実にはイエスは虐げられている人たちの側に立ち続けて、権力者たちと衝突していた。弟子たちはこの人に着いていって本当に大丈夫なんだろうか、やばいことになるんじゃないだろうか、ここらで縁を切った方がいいのかもしれない、そんな思いを持っていたのではないか。だからこそ、その思いを見透かされたように感じて、まさかわたしのことでは、と言ったのだろうと思う。
弟子たちは誰もがイエスの正体を知らないというか、理解できないままでいたのだろう。よく分からないまま、そしてこのまま着いていって大丈夫なんだろうかという気持ちを持ったまま従っていたんだろうと思う。
しかしイエスはそんな弟子たちとどこまでも一緒にいる。そんな弟子たちと一緒に最後の食事をする。ユダと一緒に食事をする。誰も見捨てない。裏切る者も見捨てない。それがイエスだ。