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礼拝メッセージより
ぶち壊す
子供のころ気に入らないことがあるとよくはぶてて物を壊していた。何に腹が立てていたのか覚えていないけれど、そうなると押さえが利かなくて、その辺にあるものを壁に投げつけたりしていた。そして落ち着いてから、どうして壊してしまったんだろうと後悔することが度々あった。
中学か高校になってからだったかな、やっぱり勿体ないからやめようと努力して、はぶてても物を壊さないようにしようと決意して、それからはあまり壊さなくなったと思う。
人生には思うようにいかないことがいろいろあるし、苦しいことが積み重なったり、あまりにも大きな衝撃があったりすると目の前にあるものをついついぶち壊してしまうような習性があるんではなかろうかと思っている。そして背負いきれないほどの苦しみに襲われると、人生そのものをぶち壊してしまおうという気持ちになっても不思議ではないんじゃないかと思う。
無駄遣い?
イエスが重い皮膚病の人シモンの家で食卓に着いていた時、一人の女が純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し香油をイエスの頭に注ぎかけた。
ナルドというのは、ヒマラヤ山脈原産のナルドという植物の根から取った、非常に高価な芳ばしい香料だそうだ。その後の話からするとその香油は300デナリオン以上に売れるものだったらしい。1デナリオンが一日の賃金だから、1日の給料を1万円としても300万円もするようなものだった。その香油をこの人はイエスの頭にかけてしまった。
そこにいた人の何人かが憤慨して互いに、「なぜこんな無駄遣いをするのか、300万円以上で売って貧しい人々に施すことができたのに」と言った、それに対してイエスは、わたしに良いことをしてくれたのだ、できるかぎりのことをした、この人のしたことは世界中に記念として語り伝えられる、と言ったという話しだ。
良いこと?
イエスはこの女性のしたことが良いことだと言ったとあるので、単純にこの女性のしたことはよいことなのだと思っていた。
この女の人はすばらしい信仰心を持っていて、イエスに対して高価な香油で埋葬の準備をするというすぐれた行為をした、だからイエスがそのことを褒めたんだろうな、となんとなく思っていた。
だから私たちもイエスにいいものを、高価な物や価値のあるものを献げましょう、イエスはそんな立派な行為を褒めてくれます、という話しなのかと思っていた。ネットでいろんな人の説教を見ても、この女性のような立派な信仰心を持ちましょうとか、自分の持っている最高のものを献げましょうとか、できるかぎりの奉仕をしましょう、というような説教が多い。
イエスが良いことだと言ってるから良いことなんだろうとは思いつつ、何百万円をするようなものを一気に使うなんて、そんな高価なものをささげるなんて、とても自分には出来ないし、何だか自分とは縁のない話だと思っていた。
それに、精一杯奉仕しろとか精一杯献金しろと尻を叩かれているみたいで嬉しくもないし、この話しを聞いても感動もなにもなかった。所詮自分は勿体ないと憤慨する側の人間だし、立派な信仰もないし、いっぱい献げるなんてできないし、そもそもいいものなんて持っていないし、と思っていた。
絶望
この女の人は純粋にイエスに精一杯のものをささげようとしていたのか、それこそできるかぎりの最高のおもてなしをしようというような気持ちで香油を頭からかけたのだろうか。もうすぐ処刑されるから埋葬の準備をしておきましょうと思っていたのだろうか。
ある牧師がある本の中で、この女性には絶望があったのではないかと書いてあった。この香油は彼女が大事に大事にとっていた、いざというときには金に換えるためにとっていた唯一の財産というようなものだったんじゃないか、というようなことを書いてあった。そう考えるとすごく納得できるなと思った。
そんな大事な大切な香油を全部使ってしまったわけだ。壺を壊してイエスにかけたということは残しておくつもりもなかった、最初から全部をかけるつもりでいたということだろう。300万円を一気にぶっかけてしまうなんてことは普通のまともな神経では出来ないことなんじゃないかと思う。そんなことができるのは超人的な信仰心のある人か、あるいは普通の精神状態ではいられないほど追い詰められた人のどちらかじゃないかと思う。
そして実はこの女性はとことん追い詰められている状態だったんじゃないかと思った。300万円を使った後の人生をどうするかなんてことも冷静に考えられる状態でもなかったんじゃないか、財産を残しておくとか、もうそんなものはどうでも良くなっていたのではないかと思う。
聖書にはこの女性の言葉も何もなくて、この女性に何があったのか、どんな気持ちだったのか想像するしかないし、まるで間違った想像なのかもしれない。けれど、やっぱりこの女性は何をやってもうまくいかず、自分の無能さをも嘆く、自分の運命を呪い、そんな運命を与えた神をも呪う、そんなほとんど人生が破綻してしまっているような状態だったのではないかと思う。
だからほとんどやけくそになって300万円の香油を全部かけてしまったのではないか。
やけくそ
何年か前にも礼拝でここのメッセージをして、その後の分かち合いの時にみんなで話していて、その話しを聞いている時に、この女性の行為は実は良いことですなどとと言えるような行為ではなかったんじゃないかと思った。
つまりこの女の人は埋葬の準備をしようとしてイエスに香油をかけたのではなくて、そこに何の意味があるのかなんて考えてもなかったんじゃないかと思う。やけくそになって財産を全部ぶちまけた、つまり彼女は自分の人生をここで全部投げ捨ててしまったんじゃないかと思う。
件の牧師が言うように、この時彼女には絶望しかなかったんじゃないかと思う。そして絶望した彼女の心に思い浮かんだのがイエスだったのではないかと思う。彼女はただ絶望した心をイエスにぶつけるしかなかったんだろうと思う。イエスがどうかしてくれるとか、助けてくれるとか、そんなことを冷静に考える余裕もなかったんじゃないかと思う。理由もよくわからず、でもただイエスに倒れかかっていった、そういう行為だったんじゃないかと思った。
そこにいた何人かが、この女の人の行為を無駄遣いだ、と憤慨したと書かれているが、まさにその通りの行為だったんじゃないかと思う。
客観的に見ればただの無駄遣い、勿体ない行為、何の意味もないような行為、誰もが憤慨するような、叱られて当然の行為、イエスからすれば身体中油まみれにされるという迷惑な、そんな滅茶苦茶なやけくその行為だったんじゃないかと思った。彼女の言葉がここに何もないのは、説明しようもないほどに混乱している状態だったというかもしれないと思う。
良いことを
それなのに、その滅茶苦茶なやけくその行為を、イエスは、「それを良いことだ」と言ったんじゃないかと思った。そうだとするとこのイエスの発言はものすごいことだな思う。
誰もが非難するしかないような行為だったわけだ。誰もが勿体ないとしか思えない滅茶苦茶な行為だった。けれどイエスはそのやけくそな行いを全面的に受け止めた、そして全面的に肯定したということなんじゃないかと思う。自分に倒れかかってきた人、その人の全てをイエスは受け止め、全面的に肯定したということなんじゃないかと思う。
だとすると、そのイエスの言葉を聞いて一番びっくりしたのは実はこの女の人だったんじゃないかと思う。自分の滅茶苦茶な行為に対して、非難されてしかるべき行為、当然非難されうだろうと思ってしたこと、非難でもなんでもしてくださいと思ってしたことに対して、反対に良いことだと言われてしまったといことになる。
自分のとんでもない行為を全面的に受け止めてくれて、さらにそこに意味を見つけ出してくれて誉めてくれたわけだ。埋葬の準備なのだと言ったのは、ただイエスが機転を利かせた後付けの理由だったんじゃないかと思う。
すごさ
失敗したり、挫折したり、うまくいかないこと、思い通りにならないことばかりが多い人生だ。また何かにつけて非難されることが多いこのごろだ。絶望感にさいなまれてやけくそになってなにもかもぶち壊してしまいたいと思うようなこともある。もうどうにでもなれと人生さえも投げ出したくなるような時もある。
しかしそんな自分に対してイエスは、お前がどうなろうと、何をしようと、たとえ全世界から非難されるようなことになったとしても、全世界がお前を見捨てたとしても私はお前を見捨てはしない、どこまでもあなたの味方だ、そんな思いで一緒にいてくれていると思うようになった。
イエスってすごいなあと思うようになった。僕にとってイエスのすごさというのは、病気を癒したり奇跡をしたりすることよりも、どこまでも味方でいてくれることだ。そこにこそイエスのすごさがあるように感じる。やけくそになって自暴自棄になって、とんてもないことをしでかす、人生を投げるようなことだってしてしまう、そんな自分に対して、徹底的に味方でいてくれる、そんな自分を徹底的に支えてくれる、どんな時でもいつまでも一緒にいてくれる、そこにこそイエスのすごさがあるように思う。