【礼拝メッセージ】目次へ
礼拝メッセージより
世の終わり
マルコによる福音書の13章は小黙示録という言い方をするそうで、終末には、つまり世の終わりの時にはこういうことが起こるだろうというようなことが書かれている。
と言っても13章の前半は神殿が崩れる時の話しのようで、途中からなんとなく終末の話しになっているようだ。
24節以下を見ると、終わりの日には、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる、そして人の子が力と栄光を帯びて雲に乗ってやってくる、つまりキリストが再びやってくるなんてことが書いてある。
昔は天変地異は神の仕業であると考えられていて、自然災害も神の裁きだというような考えだったようだ。そして世の終わりにはあらゆるものが崩れ去ってしまい、神の裁きがあるというようなイメージなんだろうなと思う。
時々思い出したように、終末のこと、世の終わりのことが話題になることがある。何年何月何日に世の終わりが来るという風に言う牧師がいたなんて話しも聞いたことがある。
そういうときは、たいがい、もうすぐ終わりなんだから、今のうちによいことをしておかなければということで、財産を売って献金をするように、なんていう話になることが多いように思う。終わりがくるといって恐怖心をあおっておけばお金を集めるのには都合がいいのかもしれないなんて思ったりもする。
神殿
そもそもどうして世の終わりの話しになったのかというと、13章の始めのところで、弟子の一人が神殿についてこぼした一言からだった。
『「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」』(マルコによる福音書13:1-2)
そもそも神殿が崩れ去るときがやってくるという話しだったのが、その後オリーブ山で神殿の方を向いているときに、それはいつなのかという話しになって終末の話しになっていったというわけだ。
神殿はユダヤ人にとっては神とのつながりを持つ唯一の場所であり、立派な神殿があることは神の祝福があるという目に見える象徴みたいなものだったようだ。だからイエスの弟子の一人が、なんとすばらしい建物でしょうと言ったように、立派な神殿があることはユダヤ人にとっては誇りでもあり、それが神との確かなつながりを持っているという安心材料でもあったのだろう。
しかしイエスはこの神殿は徹底的に破壊されるだろうなんてことを言った訳だ。そして神殿だけではなく、やがて太陽も月も暗くなり星は空から落ち、天体は揺り動かされる、なんてことも言う。神殿は紀元70年にローマ帝国によって破壊されてしま。太陽も将来は燃え尽きて暗くなるらしいし、そうすると月も自分では光っていないので暗くなるそうだ。もし太陽が暗くなったら地球は凍り付いてしまってとても生きていけないけれど。
兎に角、イエスは見えるものはやがてはみんな崩れ去ると言っているのだと思う。立派な神殿も太陽も終わりがくる、そしてこの世も終わりが来るということなのかな。
また人間にも終わりがやってくる。誰もがやがては死を迎える。それこそ今日か明日か、あるいはずっと先は私たちには分からないけれど、私たちは誰もがやがて死を迎える。
自分の死は自分にとっては世の終わりに等しいようなものだろうと思う。その先に何が待ち構えているのか、私たちには分からない。分からないと不安になるけれど、分からなくても任せる相手がいるならば安心だ。
見えないものに
その私たちに告げられているイエスの言葉は、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マルコによる福音書13:31)だ。
立派な家があることで安心する、いっぱいお金があることで安心するという気持ちはよく分かる気がする。お金がないことは心配の種だ。
でもそんな見えるものはやがては崩れ去ってしまうものだ。終わりがあるものだ。だから、そういうものに希望を持つのではなく、終わりのない滅びないもの、つまりイエスの言葉にこそ希望を持つようにと言われているように思う。
人の子
でも世の終わりなんていわれてもなかなか分からない。
旧約聖書にも世の終わりのことが書かれているそうだ。
例えばダニエル書7章13-14節には
『夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。」と書かれている。
人の子が雲にのって来るというのはこのダニエル書から来ているようだ。
パウロも同じような考えを持っていたようで、テサロニケT7:16-17には
「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」
なんてことが書かれている。
パウロも世の終わりにはキリストが再臨すると思っていたようで、当初は自分が生きている間にそうなると考えていたようだ。
ユダヤ人はそういう風に、やがては世の終わりがやってくると思っていたようで、新約聖書の中にもその影響が大分ある気もする。しかしそういうことがあるのかどうか正直よく分からない。世の終わりにイエスが雲に乗ってやってくるなんて、本当にそんなことあるんだろうか。
そもそもイエスがやがてまたやってくるということは今はどこか別のところにいるということになるのかな。でもイエスは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいると言ってなかったっけ、なんて考えると訳が分からない。
世の終わりが来るということはなんだか恐いことでもあるようだけれど、苦しい大変な思いをしている人にとっては、その苦しみが終わるということでもあるのだろうと思う。それは神の裁きの時でもあるかもしれないけれど、それは救いの時でもあるのだろうと思う。苦しい時を過ごしている人にとっては希望にもつながることだろうと思う。
目を覚まして
今日の聖書箇所では繰り返して目を覚ましていなさいと言われている。眠っているのを主人にみつからないように目を覚ましていなさいと言われているようだけれど、見つかったらどうなるんだろうかと思う。目を覚ましていなさいなんて言われても、ずっと眠らないでいることもできないし、ずっと神経張り詰めたままでいることもできない。そんなこと言われてもなあと思う。
目を覚ましているというのは、もちろんこれからずっと眠るなというわけではないだろうけれど、本当はよくはわからないけれど、決して滅びないというイエスの言葉を聞き続けていくこと、イエスの言葉を握りしめていくということじゃないのかなと思う。