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礼拝メッセージより
神殿
エルサレムの神殿にやってきたイエスは、商人を追い出したり、色んな人と問答をしたりしていた。イエスは一体何をしにエルサレムへやってきたのだろうか。なんだか彼らと喧嘩をするためにやってきたかのようにも見える。敵の牙城である神殿にわざわざ出向いてきたかのようだ。
今日の箇所ではイエスがその神殿の境内から出て行くとき、弟子の一人が「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」と言ったと書かれている。
ユダヤ人にとって神殿とは神を礼拝する場所、神に犠牲を献げて罪を赦してもらうという神との関係を持つ一番大事な場所だったようだ。神殿は神が自分達を守ってくれるという目に見える象徴でもあったのだろう。立派な神殿を見るだけでも感激するような気持ちがあったのだろうと思う。
イエスは「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここでくずされずに他の石の上に残ることはない。」と言ったと書かれている。立派な神殿を見て感動する弟子とは対照的にイエスは随分冷淡だ。
逃げろ
その後オリーブ山でペトロたちがイエスに、それはいつ起こるのか、どんな徴があるのかと尋ねたという。
イエスは、私の名を名乗る者が大勢現れるとか、戦争が起こるとか、地震や飢饉がある、また地方法院に引き渡されるとか、兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺す、そして憎むべき破壊者が立ってはならないところに立つのを見たらすぐに逃げろという話しをする。
これは福音書を書いたマルコが経験したことのようだ。マルコによる福音書が書かれたのは紀元70年頃らしいけれど、その頃のパレスチナはユダヤ戦争の戦場となっていた。
当時は飢饉や地震が多発していて、社会は不安定になっていた。そしてローマ軍の脅威も感じるようになり、自分はメシアだと語る者たちがローマに対して武装蜂起するように扇動していたそうだ。
そのような中で紀元66年にユダヤ戦争が始まり、当初はユダヤ側が優勢に立っていたけれど、ローマ軍の反撃により次第にユダヤ側は追い詰められていく。
熱狂主義者たちは、神殿には神がいるから必ず救ってくれる、だからエルサレムに留まって共に戦えと言っていたようだ。しかしマルコは、すぐに逃げろというイエスの言葉を告げ、エルサレムにいたキリスト者たちはその言葉に従って、卑怯者とか裏切り者とか言われつつエルサレムを脱出したそうだ。
その後ローマ軍がエルサレムを包囲し、エルサレムでは食べ物がなくなり、自分の子を殺してその肉を食べたなんてこともあったと書いてあった。そのエルサレムから脱出しようとする人たちは裏切り者として処刑されたりもしたが、結局エルサレムは陥落して、数万人のユダヤ人は殺され、神殿は破壊されてしまう。
しかしマルコを通してイエスの言葉を聞いたキリスト者たちは助かったようだ。
惑わされるな
それにしても弟子たちはエルサレムにやってきて、一体何を見ていたのか、と思う。イエスを見ていたのではなかったのだろうか。お上りさんのように立派な建物を見ていたのかもしれない。イエスの姿は目に入っていなかったのか。神殿を中心とする古い体質に対して、批判したイエスの言葉を聞いていなかったのか。
なんとすばらしいと言ったのは弟子の一人と書いてあるので一人だけかもしれないけれど。
でもユダヤ人として生きてきて神殿が大事、神殿こそが神との関係を持つ場所、神殿は神聖で汚してはいけないものというような気持ちを持っていたのだろうから、そんな気持ちを無くせと言ってもなかなかできないだろうとは思う。「なんとすばらしい建物」というのは地方からやってきた弟子たちみんなの正直な気持ちでもあったのかなと思う。
バビロン捕囚から解放されてエルサレムへ戻ってきたユダヤ人たちは神殿再建に取り組んだ。なによりも神殿を大事にと言う気持ちは大きかったようだ。そして神殿があれば大丈夫、神殿さえあれば大丈夫、神殿があるんだから神が必ず守ってくれるというような気持ちになっていったようだ。
太平洋戦争の時と同じだと言っている人がいたけれど本当にそうだなと思う。神の国である日本が負ける訳がない、日本中が空襲に遭っても徹底抗戦、一億玉砕、いつか神風が吹く、と言っていたようだ。
多くの人がその声に流される中、惑わされないというのはでも大変なことだ。戦争の時にそんな声に惑わされなかったキリスト者はごく僅かだったと聞く。
戦いの時だけではなく、日常でも色んな人のいろんな声を聞く。教会でもいろんな声を聞く。当たり前のように語る言葉の中にも惑わしの声が混じっているのだろうと思う。当たり前こそが惑わしが多いのかもしれない。
しかしどうすれば惑わされないですむのだろうか。