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礼拝メッセージより
律法学者
神殿にやってきてからいろいろと質問されていたイエスが、今度は自分から質問している。「どうして律法学者たちは『メシアはダビデの子だ』と言うのかと。
律法学者達が「メシアはダビデの子だ」と言っていることに対してイエスは『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を、あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』とダビデの詩と言われる詩編110:1を引用して、ダビデがメシアを主と呼んでいるのにどうしてメシアがダビデの子なのかと言った。
「主は、わたしの主にお告げになった」と言うのは誰が誰に言ったんだろうという気がする。分かりにくい言い回しだなあ。
しかしそもそもメシアがダビデの子だというのはどういうことなんだろうか。どうしてイエスはそのことに異議を唱えているんだろうか。マタイによる福音書の最初には系図が出てきて、イエスはアブラハムから続くダビデの家系に生まれたと書いてあるし、一応ダビデの子孫ということになっているんだからダビデの子だというのもあながち間違ってはいないという気もする。
あるいはメシアはダビデのようなただの人間なのではない、王として強い力を持って周りを従わせるのではないということを言いたいのだろうか。それだとしても、この詩編を引用してメシアはダビデの子だというのはおかしいというのはなんだかピンとこない。ただ揚げ足をとっているような気がする。
しかしそれに続く律法学者に対する言葉はとても納得する。長い衣を着て広場で挨拶されて上席や上座に座り長い祈りをすることを好むと言われている。見せかけの長い祈りと言っているけれど、服も挨拶も座る場所もみんな見せかけ、周りからどう見られるかばかり気にしている、周りからよく見られるようにとしているということだろう。
でもこれはまるで僕自身のことを言われているような気がする。どうしても周りの目が気になるよなあ。だいたいいつも周りから格好良く見られたいという気持ちが強い。見せかけの長い祈りって、正論過ぎて反吐が出そうだ。僕も人一倍厳しい裁きう受けることになるんだろうか。
そして律法学者に対してイエスが語ったもう一つのことが、やもめの家を食い物にしているということだ。具体的にどういうことなんだろうか。夫を亡くした未亡人の弱みにつけこんで、報酬をもらうために必要以上に世話をしていた、なんてことがあったのだろうか。
賽銭箱
やもめの話しが出たので、続いてやもめ繋がりでもあるかのような話しが載っている。
イエスは賽銭箱の向かいに座って群衆がお金を入れるのを見ていたそうな。誰がどれ位入れるのかジロジロ見ていたんだろうか。
賽銭箱とは神殿の中では一番外側の婦人の庭というところに、雄羊の角で作られてラッパの形をしていたものが13個備えてあったそうだ。当時は紙幣はなかったそうで、そうすると賽銭箱に入れるお金はコインばかりで、金持ちたちはジャラジャラといわせていっぱいいれていたんだろう。
その賽銭箱に貧しいやもめがやってきてレプトン銅貨2枚を入れた。イエスは弟子たちを呼び寄せて、この貧しいやもめは誰よりもたくさん入れた、自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからだと言ったというのだ。
レプトン銅貨というのは一番小さなお金だと書いてどこかにあったと思うけれど、一日分の賃金である1デナリオンの128分の1になるそうで、今だと大体50円位になるそうだ。つまり50円玉2枚を献金したということになるようだ。
イエスは、50円玉2枚だったけれどそれが彼女の生活費全部だったから誰よりもたくさんだと言ったというわけだ。50円でも2枚あるんだからせめて1枚にだけにしとけばいいのに2枚とも献金したということだ。
イエスは生活費全部を献金することがすばらしいことだと言いたかったんだろうか。この貧しいやもめのように全部献げることはすばらしいことだ、そんな信仰をイエスは喜ばれる、皆さんもいっぱい献げましょう、と牧師としては言いたくなりそうな話しだなと思う。
でも生活費全部献金したら、この人はこの後どうするんだろうか。全部献金したらその後は何も食べないで過ごすということなんだろうか。全部献金したからといって、そのご褒美にイエスが豪華な食事に招待してくれる、というのならいいけれどもちろんそんなことはないだろうし、一体この人は何を考えていたんだろうかと思う。
当てつけ?
このやもめは立派な信仰心を持っていて、感謝な気持ちを持って全部献金したんだろうか。そんなことではないだろうと思う。
やもめということは夫を亡くしたということだろう。今でも夫を亡くすと生活が困る人が大勢いるが、当時は今よりももっともっと大変だったようで、今日のやもめも所持金が100円しかないという苦しい生活をしていたということだろう。そんな人が立派な信仰心から、なけなしの100円を平然と献金するなんてことがあるんだろうか。そんなこと考えられないような気がする。
生活費全部を献金するなんてことは、かなり異常なことだろうと思う。その日一日をどうやって過ごそうか、今日は食べられるだろうか、明日は大丈夫だろうか、そんな風な生活を続けていたんじゃないだろうかと思う。そんな生活を続けていて、疲れ果てて、物事を冷静に考える余裕もないような状態だったんじゃないかと思う。今日一日食べれないなんてことさえも考える余裕もなかったんじゃないかと思う。
聖書には詳しいことは何も書いてないので勝手な想像だし全く見当違いかもしれないけれど、実はこのやもめは、苦しい生活に嫌気がさして、冷静な判断もできなくて、夫を亡くしたことや苦しい生活が続く、そんな自分の運命を呪い、自分の人生を呪うような気持ちで、またそんな運命を自分に与えた神に対して、こんなはした金でどうしろというんだ、と神に当てつけるような気持ちで献金したんじゃないかという気がしている。もしかするとそこで人生を終えるような、終えても良いような気持ちだったのかもしれないとさえ思う。
でもイエスはこのやもめの献金を、この人が誰よりも多く献げたと言って賞賛したということなんじゃないのかなと思う。こんなお金でどうやって生きていけばいいんだと当てつけに投げ入れた。それに対して、誰よりも多く入れたと褒めたと言うことなんじゃないかと思う。
この女性はこのイエスの言葉を聞いたならびっくりしてしまったに違いないと思う。当てつけのような気持ちで投げ入れた献金を、誰よりもたくさん入れた、なんて褒められたらびっくりしてしまうだろう。びっくりして、それから嬉しくなってしまうだろうと思う。
どんな時も
僕にとってイエスとはそういう存在だ。僅かな献金を一番多いと言ってくれる、僅かな献金を賞賛してくれる、そんな仕方で自分を支えてくれる、どんな時にもそばにいてくれる、僕にとってイエスとはそういう存在だ。
イエスは私たちのなにもかもを受け止めようとしてくれているのだと思う。苦しみも悲しみも嘆きも、そして失敗も挫折も絶望も、なにもかもひっくるめて、そんなあなたをいつも見つめている、そんなあなたの全てを受け止めたい、だからそのままでぶつかって来て欲しい、どんな時でもいつまでもそばにいるんだから、何があっても私はあんたの味方だ、イエスは私たちにそう言ってくれているのではないだろうか。