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礼拝メッセージより
律法
一人の律法学者がイエスに質問した。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」当時「掟」と言われるものが600以上あったそうだ。いっぱいありすぎて何が何だかわからん、と言った状態だったのかも。そんなことでどれが一番大事なものなのかがよくわからん、と言うことになっていたようだ。
それに対してイエスの答えは、第一が『イスラエルよ聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』、そして第二が『隣人を自分のように愛しなさい』。第一の掟は何かと聞かれたのに対して、イエスは第一と第二とを答えた。ということは第一と第二は同じように大事で、これがセットになっているということなのだろう。おそらくこの二つの掟は切り離せないものなのだろう。
この掟の前半の掟「神を愛せ」と言う掟は昔から大事だと言われてきた掟だったようだ。ユダヤ人たちは毎日朝と夕方にこの言葉で唱える祈りがあるそうだが、その最初の部分が申命記6:4-5の「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という言葉だそうだ。つまりユダヤ人であれば誰でもよく知っている掟、だれもが大事だと言うことを知っている掟だった。
愛すること
一番大事な掟が、ただ神を愛せ、と言うだけなら、その一つだけだと言うならば、ひたすら脇目も振らず神を見つめることが一番大事なことということかもしれない。
しかしイエスは第二の掟を付け加えた。それは、神を愛すると言うことが、隣人を愛すると言うこととセットなんだと言いたげだ。とにかく神を愛すると言うことと人を愛すると言うことが、密接な関係にあるということに間違いはないのではないか。神を愛することと、人を愛することは同じであるということかもしれない。神を愛するということの具体的な事柄が人を愛すると言うことになるのかもしれない。
では人を愛するとは具体的にどういうことなのだろうか。
「愛している」と言うは簡単かもしれないが、よくよく考えると本当に愛しているのかどうかもようわからんというのが実際のところなんかもしれない。相手を大事にすると言うことなんだろうか。
たとえば、もし自分が何か間違いを犯してしまったとき、どうにか赦してほしいと思う。嬉しいことがあったとき、いっしょに喜んでほしいと思う、悲しいことがあったとき慰めてほしいと思う。寂しいときにはそばにいてほしいと思う。自分がそうしてほしいとき、そうしてもらえれば、愛されていると思う。逆に言えば、相手がそれをしてほしい、というそのことをすることが愛すると言うことになるように思う。
しかし実際には自分に対して何か間違いを犯したものを赦すことはなかなかできない。人が喜んでいることをなかなかいっしょに喜べない。人の不幸のほうを喜ぶ、そんなことの方が多い。自分が何かあったときにはいろいろしてほしいが、他の人がどうあろうと知らん顔をすることが多い。同じことが起こっても、自分と人では全然違うことになる。でもイエスは、隣人を自分のように愛しなさいと言われる。自分のように。隣人に起こったことが自分に起こったこととしなさい、と言うことなんだろう。
以前読んだ本の中で、監察医の人の書いたものがある。死体を検査して死因を調べる人の本。その中に交通事故の検死をしたときのことが書いてあった。車がスピードのだし過ぎで事故になった。その車に乗っていた四人の友だちはみんな死んでしまった。車に同乗していた自分の子どもが死んだので運転していた者の責任だとして、多額の慰謝料を請求していた人がいたと言う。四人は友だちでも、その親たちは知らない同士だった。三人の親がひとりの親に慰謝料を払えという話しになったが、実際は誰が運転していたのかはっきりしないということで、監察医の人のところへ相談があった。ところがこの監察医が調べると、運転していたのは、金を請求していた方の家族だったことが後でわかったそうだ。その後どうなったかは聞いてないそうだ。自分が優位な立場にいるとなると相手を責めて慰謝料を払えなんて言う。向こうの子どもも死んでいるのだが。
これが人間のありのままの姿なのかもしれない。自分が優位に立っているとなると相手を見下して、責める役回りになってしまう。自分のミスでまわりに迷惑を掛けてしまって落ち込んでいる人に向かって、お前が悪いんだと殊更に責めるようなことがある。子どもと親の関係なんてのは、特にまだ子どもが小さいときは親の方が圧倒的に優位に立っているものだから、親が何か間違ったり失敗したときには、ごめんね、と済ませてしまうくせに、子どもが何かをしでかしたときには、お前がこうしたからこうなったんだ、としゅんとなっている子どもに追い打ちをかけるようなことをいうこともある。子どもとか弱い立場のものに手を挙げたりすることもある。ひどいのになると、殴りながら、これは愛しているからだ、なんて言ったりする。
でも本当はそんなのは愛ではないのではないかと思う。愛の鞭なんてのが本当にあるのだろうかと思う。しかし考えれば考えるほど愛することは難しいように思う。自分には愛はないと言うのが実状なのかもしれないと思う。
イエスは、自分を愛するように相手を愛しなさいと言われた。「自分のように」相手のことを思うことが愛することなら、愛するとはとてもしんどいことだ。愛するというのは自然に湧き上がる気持ちではないんだろうと思う。
自然に湧き上がるものではないから掟となっていると言うことかもしれないが、愛そうと決意しない限りは愛するなんてことはできないのだろう。しかしそういわれてもなかなか愛せない。わたしたちはただ愛せと言われてもできない生き物だと思う。
だからきっと愛とか、愛するとかいうことはしんどいことなのだ。愛するとは、自分の感情の状態ではないのだろう。あなたを愛していると言うのは、今の自分の心の状態、あなたを好きなんです、と言うこととは違うようだ。愛するとは、相手をこれから大事にしていくと覚悟すること、決心すること、決意の言葉なのだと思う。感情ではなく、意志なのだと思う。
神が私たちを愛している、ということもそういう意志を神が持っていると言うことなのだと思う。神が私たちを愛するというのは、神が今、たまたま私たちを気に入っていると言うことではないのだろう。気に入らなくなればやめてしまうといったようなことではなく、私たちを大事にするという決断をしたということなのだと思う。私たちが正しいとか正しくないとか、いいとか悪いとかいうようなこととは関係なく、私たちを愛するという決意をされたということなのだろう。
私たちは自分が神さまの言うとおりにしていないと神さまから嫌われ見捨てられてしまうのではないかなんてことを心配する。けれどもきっと神が私たちを愛するというのは私たちの状態を見て判断して、いい子だったら言うことを聞いてやるというようなこととは違うのだと思う。神が私たちを愛するというのは、神がこの私たちの全てを抱え込んで、守り支え続けると決意したということなのだ。
自分のように
隣人を自分のように愛しなさいと言われているけれど、実は案外自分のことをあまり愛していないことも多いのではないかと思う。失敗したり間違ったりしたとき、ああしとけば良かったといつまでも悔いていたり、だから自分は駄目なんだと自分を責めていたりする。自分で自分を受け止めない、認めない、赦さない、それは自分を愛していないということでもあるんではないだろうか。
神がこの自分を受け止め愛してくれていること、そのままの自分を大切に思ってくれていること、そのことをもっともっと知って、自分でも自分を愛することが大事なのかもしれないと思う。
この自分を神が自分を愛してくれている、だからあなたも愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい、と言っているのだと思う。それは神が、わたしはお前を愛している、だからお前も隣人を愛しなさい、と言うことなのだろう。お前のことはこの私が全部面倒を見る、私が支える、だからあなたはあなたの隣人を愛しなさい、それこそがあなたが生きる道だ、そう言われているのではないだろうか。