【礼拝メッセージ】目次へ
礼拝メッセージより
サドカイ派
今日の箇所ではサドカイ派の人々が登場する。サドカイ派とはエルサレム神殿を中心とする祭司的、貴族的階級の人たちのことだ。彼らはモーセ五書、具体的には旧約聖書の最初の五つの文書、創世記と出エジプト記とレビ記と民数記と申命記の五つしか聖書と認めていなかった。そしてモーセ五書には復活のことは書いていないということから復活はないと言っていたそうだ。貴族的ということもあり、かなり恵まれた地位にあったようだ。そしてそんなことからも現実主義者だったらしい。
一方、このサドカイ派と仲の悪いファイサイ派は復活があると主張していたそうだ。ユダヤ戦記という本の中には彼らのことが「霊魂はすべて不滅であるが、他のからだに移ることのできる者は善人の魂に限られており、悪人の魂は永遠の刑罰を受ける、と彼らは主張していた」と書かれている。ファリサイ派は復活は認めるけれども、霊魂が再び身体をとるのは善人のみであるという立場で、善人、悪人というこの世の区別があの世でも通用するという風に考えていたそうだ。だからこそこの世では必死になって善人になる努力をする。つまりそれが律法を守るということで、律法を守ることが、すなわち善人であるということだったようだ。
今日の聖書のすぐ前のところで、ファリサイ派の人たちが皇帝への税金のことでイエスを陥れようとして返り討ちにあったようなことが書かれている。それなら今度は俺たちがということでサドカイ派の人たちがやって来たのかもしれない。
レビラート婚
サドカイ派の人たちはイエスに質問をする。それは「もしある人の兄が死に、残された妻に子がない場合には、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない」とモーセが言っている、ということから始まった。
このことは申命記25章5-6節に書いてある。「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。」と書いてあって、このことをレビラート婚というそうだ。
こういう律法があるといった上で、もし兄弟が7人にて、長男が結婚し、子がなくて死に、次男が長男の妻と結婚し、また子がないままに死に、同じように3男、4男、・・7男間で同じようになり、結局子がないまま死に、この妻も死んだとする。そして復活してみんなよみがえったときには、この女は一体だれの妻になるのか、と質問した。サドカイ派とすれば、復活なんてことがあるとこんなおかしなことが起こるじゃないか、復活はないんだと言いたいのだろう。
前提
ここでイエスは「聖書も神の力も知らないから、あなたたちはそんな思い違いをしているのではないか」と言う。
今回のサドカイ派の人たちの話では、復活後もこの世と同じシステムがある、この世と同じように結婚という制度があるという前提のもとでの議論となっている。その上で女の人は誰の妻になるのかという議論をしている。
しかしイエスは、死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになると言っている。つまり復活後もこの世と同じような生き方になるという前提そのものが違っている、それは思い違いだと言っているようだ。
そしてイエスは、そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからだと言っている。しかしそれって神の力とどう関係があるんだろうか。死んだ後のことなんてて分からないよなと思う。ましてその後の復活のことなんてもっと分からない。聖書と神の力を知っていないから分からないんだろうか。そんなこと言われてもなあと思う。
イエスはそれに続けて聖書の話し、しかもモーセの書の話しをする。モーセ五書だけを正典としているサドカイ派の人たちに、モーセ五書の話しをするというのもなかなか面白い。
そこでは、神はモーセに向かって自分のことを「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言っているではないかと言う。これは出エジプト記3章6節に書いてある。モーセが召命を受けたときに神が柴の間からモーセに声をかけたときに言った言葉だ。イエスはそれに続けて、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだと言っている。
生きている者の神
正直分かるような分からないような話しだ。
神がモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神だと言った時には、アブラハムもイサクもヤコブもとっくに死んでしまっていた。けれど神は、わたしは彼らの神であったではなく、彼らの神であると言っている、神であったと過去形ではなく、神であるという現在形で言っている、そして神は死んだ者の神ではなく生きている者の神である、ということは彼らは生きている、だから復活はあるということかな。それならば分からなくもないけど、あまりしっくりこない。
そもそも神は死んで者の神ではなく、生きている者の神だというのは何なんだろうか。死んだ者の神でもあるんじゃないのか、死んだ者の神でもいて欲しいと思う。死を通しても、死んだ後も支えてくれる神なんじゃないのかな思う。
ここでいう死んだ者というのは、死を経験した者ということではなくて、消え去ってしまったものという意味なのかなとは思うけれど。
思い違い
要するにイエスは復活はあると言っているようだけれど、じゃあ復活ってどういうものなのはやっぱりよく分からない。ここで言う復活とは、死んだ後もう一度この世に戻ってくるということではないようだ。
イエスは天使のようになると言っているけれどこれはちっとも分からない。どういうことなんだろうか。そもそも何かに譬える時にはよく知っているものに譬えてもらわないと分からない。イエスは、空の鳥とか野の草とか、いつもはすごく身近な分かりやすいものに譬えて話しをしてくれていると思うけれど、天使のようになんて言われても、天使を見たことも会ったこともないのに分からないよと思う。
分からないことだらけだけれど、私たちの神は私たちが死んだ後にも私たちの神であり続けるということ。死んだ後も私たちと神との関係は終わらない。死んでからも神は私たちの神であり続けるということなんだろうと思う。
今日の箇所で一番印象的だった言葉は思い違いという言葉だ。思い違いをしているのではないか、と言ったかと思うと最後には、大変な思い違いをしている、なんて念を押されている。
復活だけではなくてきっといっぱい思い違いをしているんだろうなと思う。少しずつ思い違いをなくしていけたらいいなと思う。