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礼拝メッセージより
税金
ユダヤは、ローマ帝国の属領で、ローマ帝国へ人頭税を納める義務があった。人頭税とは、14才から65才までの男子と、12才から65才までの女子に対して、一人1デナリを納めるという決まり。ローマへの納税は、ローマへ屈服することと考えられていて、いつもユダヤ人の間で問題となっていた。
納税に対して反対していた人たちの中にファリサイ派がいた。ユダヤ人こそ神に選ばれた民である、ユダヤ人は先祖から伝えられている律法にのみ従うべきである、他の国に税金を納めるとはなんたる屈辱、そんなことはけしからん、税金は神に納めるべき、ということで反対していた。
心の内では反対していたが表だっては反対しなかった。そのことを表立っていうことはしないで、しぶしぶ税金を納めていた。「神はときと季節とを変じ、王を廃し、王を立て」(ダニエル)を根拠にして、今は仕方ないからという気持ちで納めていたらしい。ファイサイ派以上に反対している人たちもいた。熱心党と言われるグループは絶対反対、何が何でも反対、そして納税も拒否していた。
これに対し納税することを認めるグループもあった。ヘロデ派と書かれている人たちがそうだったらしい。ヘロデという人物は、ローマからユダヤ地方を治めることを任されていたため、ローマに妥協的であった。ローマに支配されているのであるから、ローマに税金を納めるのは当たり前であるという論理だったようだ。
ファリサイ派、ヘロデ派は主義主張が全く違っていた。ところが全く反対のことを考えている彼らが結託してイエスを陥れようとして遣わされた。「人々が遣わした」とあるが、人々とは祭司長、律法学者、長老たち、つまりユダヤ教の指導者たちのこと。この指導者たちは、ファイサイ派とヘロデ派の論争にイエスを巻き込んで、化けの皮を剥がしてやろうと思っていたのかもしれない。
税金
ファリサイ派とヘロデ派の人たちは、丁重にイエスに話しかけ質問する。その質問は、皇帝に税金を納めることが律法にかなっているかどうか、というもの。彼らの論争そのままを質問した。長い間論争になっていること、そして決着がついていないことを質問した。つまり答えられるわけがない、と思っていることを質問した。答えられるものなら答えて見ろ、といったところだったのだろう。どう答えようと誰かがそれに反対する体制を整えての質問だった。
「税金を納めてよい」と言えば、熱心党とそれに同調している民衆、国粋主義者たちは承知しない。神に選ばれている民が、異教の皇帝に屈服するとは何事かと怒り出す。
逆に「税金を納めてはいけない」と言えば、ローマに反抗している扇動者だとしてローマ当局に訴えることもできる。
究極の選択という感じ、逃れられない罠にはまったという感じ。ファイサイ派とヘロデ派にとって、またユダヤ教の指導者にとっては思うつぼ。
返しなさい
しかし、イエスはこの質問にすぐには直接答えず、デナリオン銀貨を持ってきて見せなさい、なんてことを言う。デナリオンとはローマの貨幣で、表にはティベリウスという皇帝の顔があり、「神なるアウグストの子、ティベリウス、カイザル・アウグスト」と刻まれ、裏には女神の姿が描かれ、リビアという女王の像があり「大祭司」と刻まれていたそうだ。
イエスはその貨幣を見て「これはだれの肖像と銘か」と訊く。「皇帝のものです」と言う答えを聞くと、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えた。これを聴いた人々はこの答えに驚き入った、と聖書は伝えている。
イエスを陥れようとした者たちにとっては予想外の答え、というか予定外の答え、思ってもいない答えだったようだ。
しかしここでイエスは何が言いたかったのだろうか。
この世で生きていく以上は、この世での義務や責任(納税する、法を守るなど)をきちんと果たしなさい。しかし、同時に、あなたたちは神によって造られた”神のもの”であるということを忘れず、神に従いなさい。
ということだったのだろうか。
皮肉?
色んな人の説教を見たけれども、だいたいそういう感じの説教が多かったのでそうなんでしょうね、多分。でもなんだか無理して解釈しているようなよく分からない説教も多かった。
よくわからないことがある。デナリオン銀貨は皇帝のものなんだろうか。国中の銀貨は皇帝のものってことなのかな。しかもそれは皇帝に返さないといけないものなんだろうか。
そもそも神のものとはなんなんだろうか。神のものは神に返さないといけないんだろうか。私たちは神のかたちに似せて造られて、いわば神の肖像があるようなものだから、私たち自身を神に返さないといけない、というようなことを言っている人もいたけれど、それも分かるような分からないような話しだなと思う。
よくよく考えると分からないことばかりというか、しっくりこないことばかりだ。
ある人は、神のものというのは敬虔な神信仰のことではなく、神殿税をはじめとする、神殿に徴収されている一切のものを意味する、と書いてあった一番納得する気がする。
最初のローマの人頭税の話しをしたけれど、ある注解書に書いてあったことだ。そこには「14才から65才までの男子と、12才から65才までの女子に対して、毎年一人1デナリオンを納めるという決まり。」と書いてあった。
1デナリオンというのは1日分の給料だそうだけれど、そうすると年間の人頭税が1万円とか2万円とかということになる。
一方神殿税はどのくらいなのか分からないけれど、その他にも収穫物の十分の一を献納するようにと律法に書かれているように、かなりのものを神殿に納めていたようだ。
神殿では皇帝の肖像のある貨幣は偶像崇拝に通じるというようなことで古いヘブライの貨幣じゃないと献金できないというようなことにして結局は両替商を儲けさせたり、犠牲の動物も傷のないものお墨付きのものでないといけないということで動物商を儲けさせたりということがあった。
律法にかなうためにという、いわば信仰的な話しを持ち出して庶民を苦しめ、その分ユダヤ教の指導者たちや神殿を取り巻く人たちは守られていたのだろう。
そんな庶民を苦しめている実体を放っておいて、それよりも遥かに少ないであろうローマへの税金を納めていいかどうかとイエスに迫っている、それが今日の箇所なのではないかと思う。
そうするとイエスの答えは、「皇帝のものなら皇帝にお返しすればいいじゃないか。神のものは神にお返ししなさいと言われているんだから。」というような意味で言ったのかもしれないと思う。
ファリサイ派たちは皇帝に税金を納めていいかどうか、言わば信仰的な問いを持ちだして何が正しいかと聞いている。
自分の正しさを求めてはいるけれど、信仰的な正しさを求めているけれど、そこにいる隣人の姿、隣人の苦しさが見えていないじゃないか、イエスはそう言っているんじゃないだろうか。
イエスはそんな苦しむ人たちのために戦っているような気がする。人々を苦しめる在り方に抵抗している。どこまでも苦しめる人たちの味方でいる。その結果が十字架だったのではないだろうか。