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礼拝メッセージより
ぶどう園と農夫
神殿でイエスはたとえで彼らに話し始められた。彼らとは11:27にあるように祭司長、律法学者、長老たちのことだ。
たとえは、ある人(ぶどう園の主人)がぶどう園を作り、農夫たちに貸して旅に出た。かなり長い旅だったらしく、収穫の時になって収穫を受け取るために僕を送った。ところがその僕は袋叩きにされて帰ってきた。そこでもう一人を送ったら、今度は殺された。何回かそんなことを繰り返したがみんなだめだった。そこで一人息子を送って、こいつなら息子だから手荒なまねはしないだろうと思っていたら、息子も殺されてしまった。そんなことをしたらぶどう園の主人は、農夫たちを殺して、他の人たちに与えるだろう。まあそういうことだ。
10節では聖書にこんなことが書いてあるがそのとおりだ、とイエスは言った。これは旧約聖書の詩編118:22-23に書いてある。それを聞いた彼らは、つまり祭司長、律法学者、長老たちは自分たちに対する当てつけだと分かったので、頭にきてイエスを捕まえて懲らしめてやろうと思った。懲らしめというよりも殺してやろうと思ったようだ。
ぶどう園
イザヤ書5章にぶどう畑の歌というのがある。そこには、「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」とあるように、イスラエルがよくぶどう畑に譬えられるようだ。
すなわちこのぶどう園の主人=神、ぶどう園=イスラエル、農夫たち=イスラエルの指導者たち、つまり自分たちのこと。主人の僕=預言者たち、一人息子=イエス、という風にたとえられているようだ。注解書にはそう書いてあったし、そう考えたら筋が通る。
イスラエルの指導者たちは、かつては神の言葉を伝えた預言者たちを殺し、ついにはひとり子を殺す。そして神の恵みや祝福は異邦人に与えられることになった、そういうことを言っているようだ。
祭司長や律法学者や長老たちにはイエスのたとえをどれほど理解できたのだろうか。少なくとも主人の跡取りを殺そうとしている農夫たちが自分達のことだということは分かったということなんだろう。だから腹を立ててイエスを捕らえようとしたということなんだろう。
それにしても血なまぐさい、残酷な話である。イエスはどうしてこんなたとえを話したんだろうか。何が言いたかったんだろうか。
今日のすぐ前のところで、イエスがユダヤ教の指導者たちから何の権威でこんなことをしているのかと聞かれたということがあって、その時には答えなかったけれど、その後で今日のたとえを話したとすれば、その答えとしてのたとえでもあるのだろうか。だとするとイエスは、自分は跡取りの息子だ、そしてその自分をあなたたちは殺そうとしている、ということを言っているということなんだろうか。
聖書学者の多くは、9節の後半「戻って来て農夫たちを殺し、、、」以降は初代教会の人たちが書き加えたものだと考えているそうだ。農夫たちを殺しぶどう園を他の人たちに与えるというのは、イエスの死後40年程後に起こったユダヤ戦争によってエルサレムが滅ぼされて神殿も破壊され多くのユダヤ人が殺されたことを指していると考えられているようだ。
隅の親石というのは、詩編118:22以下にある言葉だそうだけれど、十字架で処刑されたイエスが救い主であったということを告白しているようだ。
イエスの言葉が9節の前半までだとすると、イエスは「このぶどう園の主人はどうするだろうか」と問いかけて、イスラエルの指導者たちに自分達のしていることを振り返ることを期待しているということになるようだ。
聞いてる?
無理矢理な解釈かもしれないけれど、
僕とは神からの便り、神の言葉、のたとえとも考えられるのではないかと思った。
その神の言葉を私たちはしっかりと聞いているのだろうか。
殴り侮辱し殺し、つまりその言葉を聞かず、逆らって、自分の欲望のままに生きようとしているのかもしれない。神の言葉を殺して、その言葉に逆らって、何もかも自分の物にしようとしているのかもしれない。
隣人を愛せと聞かされても、その言葉を拒否しているではないか、しっかりと聞いているか、そう言われているような気もする。
親石
全然関係ないけど、隅の親石のところを読みつつ、捨てられた石とは呉教会のことではないかと思った。これは主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える、と言いたいな。