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礼拝メッセージより
権威
権威ってなんなんだろう。そんな言葉使ったことない気がする。
祭司長、律法学者、長老たちがイエスに「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」と言ったと書かれている。
ということは、誰の許しでこんなことをしているのか、後ろ盾は誰なのかと聞いているということなのではないかなと思う。
祭司長や律法学者や長老たちとはユダヤ教の中枢の人たちだ。彼らは神の名のもとに民を指導していたのだろう。神の名をのもとに律法を守るように教えていたのだろう。そして神の名のもとに神殿の祭儀を司っていたのだろう。そして神の名のもとに民衆から神殿税と収穫物の1/10の献げ物を受け取っていたようだ。
当時ユダヤ教社会には600 以上の律法規定があったと言われている。それは宗教的規範だけではなく、社会生活のすべてを規定していた。人々は律法を神の言葉として守ろうとした。ユダヤ教支配者たちもそれを認めさせ、守らせようとした。そして次第に律法自体が絶対的なものとなっていった。人々はそのことに疑問を感じなくなった。だれも批判しなくなり、律法を疑うことなどもってのほか、何よりも大事なものが律法となった。
ユダヤ教支配者は、その絶対化された律法によって自らを権威付けていた。彼らはひとりひとりが自分の判断で生きることを許さない。そうすることは自分の権威をあやうくすること、自分の立場が危険になることだった。彼らは自分の立場を守るためにも律法を守ることを人々に強制した。そして自分の権威をゆるがすものを放っておかなかった。
律法から自由に生きたイエスは彼らにとっては目の上のたんこぶだった。単なるうるさい若造であれば、どうってこともなかったのだろうが、次第にイエスが脅威となってきた。自分たちの社会のしくみを引っ繰り返してしまいかねない危険分子だった。いまの仕組みを変えてもらっては困る。仕組みが変わってしまうと自分たちも大変な目に遭うかもしれない、ということになる。大きな会社に入って、定年まで大丈夫と思っていたのが倒産してしまった、といったようなことになる。
彼らは自分達の利権を守りたいという気持ちもあったのだろうけれど、それと同時に、律法こそ神の言葉、間違いのない神の言葉だと信じていたいという気持ちもあったのではないかと思う。
だから彼らはイエスに問いただす。「何の権威によって」。我々は神の権威によっていまの仕事をしている、神殿を守っている。神殿で犠牲をささげることも神の命令に従ってやっている、律法に従ってやっている、そのために民衆に便利なように神殿で動物を売ることも許しているのだ。我々は神の権威の下にこのことをしているのだ。そのように民衆に教えているし、そうであってほしいし、そう信じたい、そんな気持ちもあったのかなと思う。
そう信じているのに、疑わないようにしているのに、そんな気持ちを揺るがすとはなにごとか、余計な騒音は立てるな、そんな気持ちだったのかな。
だから何の権威でやってるのか、なんて聞いたんじゃないのかな。
そこでイエスは、ヨハネのバプテスマは天からのものであったか、それとも人からのものだったか、と問いただす。しかし彼らはこれに答えられなかった。彼らはヨハネを信じてはいなかった。だからヨハネのバプテスマは人からのものだと彼らは思っていた。ところがそういうと群衆が怖かったし、天からのものだといえばどうしてヨハネを信じなかったのかと言われる、だから「分からない」と答えた。
自分の信じるところを正直に言えばいいのに言えなかった、と言うことだろう。自分たちこそが神の権威によっているとするならば、純粋に疑いもなく従っていると思っているならば、群衆がどう言おうとヨハネのバプテスマは人からのものだと言えばよかった。でも言えなかったということは神の権威の下にやっているということが、つまりこれこそが神の定めたことだから信念を持ってやっているということではなかった、神の権威でという言葉も確信のある言葉ではなかったというだったのではないか。
答えない
マルコによる福音書1 : 27。人々は驚きの目を持ってイエスを見ている。「権威ある新しい教えだ」と。それはイエスがそう要求したのではない。イエスが自分は権威があるんだと言って歩いたわけでもない。人々が自発的に言った言葉だ。
十字架を目前にしたときにも、イエスは権威をめぐる問いに答えなかった。
権威とは周りが認めることではあったとしても、自分から振りかざすものではないということかなと思う。
俺は神の権威でやっている、神の名のもとにやっている、俺の後ろ盾は神なのだ、だから従え、というように、権威とか権力を振りかざすとろくなことにはならないということのように思う。
戦争の時に、上官の命令は天皇の命令だと言って、だいぶ年上の部下を殴っていたなんて話しを聞いたことがある。権威を振りかざすと相手を苦しめてしまうことになりかねない。
神がこう言っている、聖書にこう書いてある、と言って相手をねじ伏せるとしたら、それは神の権威を振りかざすということなんだろうと思う。
イエスは権威を振りかざすことはなかったんじゃないだろうか。
誰かの言葉を借用するのではなく、自分の言葉で語っていたんじゃないかと思う。
何の権威でやっているか、後ろ盾はなんなのか、そんなことさぐる必要はない。それよりも私自身を見なさい、イエスはそう言いたかったのではないか。
そもそもイエスにとって権威なんて必要なかったんじゃないだろうか。イエスは他の何かの権威のもとに生きていたのではなく、純粋に自分の信念に基づいて、敢えて言えば自分自身の権威に基づいて生きていたのではないかと思う。