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礼拝メッセージより
呪い
なんだかよく分からん話しだ。いちじくの話しがあったり、神殿の話しがあったり、またいちじくの話しになったり、そうかと思うと祈りの話しになったり。訳が分からんという気持ちが大きい。
イエスがいちじくの木に実がなってなかったので呪ったら、次の日には枯れていたなんてことは本当にあったんだろうか。そんなことあるんだろうか。
このことからクリスチャンにはならないと言った作家がいたそうだけれど、これはこの通りのことが本当にあったことじゃないんだろうと思う。
エレミヤ書8:13には「わたしは彼らを集めようとしたがと/主は言われる。ぶどうの木にぶどうはなく/いちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、わたしが与えたものは/彼らから失われていた。」という言葉がある。
ぶどうとかいちじくというのは、よくユダヤ人を象徴するものとして登場するみたいで、そのいちじくの実がなっていないというのは、ユダヤ人たちが神の期待するような人間にならなかったということを言っているのではないかと思う。
そしてそのユダヤ人たちがどのように実を結ばなかったのかということが、そのすぐ後の神殿の状況として書かれているのではないかと思う。
ちゃぶ台返し
神殿の境内には売り買いしている人たち、両替人や鳩を売る者がいたことが書かれている。
神殿の中心には大祭司だけが入れる「至聖所」があり、その外側に祭司だけが入れる「祭司の庭」があり、その外側にユダヤ人の男性だけが入れる「男性の庭」があり、その外側にユダヤ人の女性が入れる「女性の庭」があり、その外側に異邦人も入れる「異邦人の庭」があったそうだ。異邦人の庭は神殿全体の広さの三分の二位ある広い庭だったそうだ。
商人はその異邦人の庭でぶどう酒や犠牲のための動物など祭儀に必要なものを売っていた。両替人は外国の貨幣を神殿奉納に指定されていた古代ヘブライのシケルと交換した。外国に移住していた人たちにはヘブライのお金はあまり持っていないだろうし、それも昔のお金となるとそれを用意するのは大変だっただろうから、そういう両替人がいることで助かっていたようだ。また犠牲のための動物を遠くから持ってくるのも大変で、しかも傷のないものを献げないといけないことになっていたようで、神殿の中で献げてもいいというお墨付きの動物を買うことができれば面倒もなくて都合がよかったのだろう。そして貧しい庶民が犠牲のために買っていたのが鳩だったそうだ。
神殿で献げ物をするために都合のいいシステムであったのだろう。商人はそれでもうけていたわけだが、そこで商売をする許可を神殿からもらってやっていたんだろうから、商人と神殿の祭司とのよからぬ関係もあったのかもしれない。きっとあったに違いないと思う。
そこでイエスは「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』」。
これは旧約聖書のイザヤ書の56:7に「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」という言葉があって、その言葉を引用しているようだ。
イエスはそれに続けて、「ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」なんてことを言っている。
祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いてイエスをどう殺そうかと相談したと書いてある。イエスの言葉が図星だったということだろう。強盗の巣なんて言われたら頭にくるだろうなという気がする。
どこの馬の骨とも知れない若造が、自分たちの利権に対して文句を言ってきたわけだ。このまま何事もなければずっと食うに困ることはない、或いはこのまま良い暮らしが出来る、そんな組織を作ってきたわけだ。余計なことを言われたらそんな自分たちの暮らしが脅かされるし、ユダヤ人社会全体を脅かすようなことでもあったのだろう。そんな奴を放っておけるわけがない、ということだったようだ。
祈りの家
イエスが神殿を全面的に認めるような感じがするけれどどうなんだろう。その後13章では、弟子が神殿を見て、なんとすばらしい建物でしょうと言った時には、この建物は完全に破壊されるだろうなんて話しをしている。
ルカによる福音書では、イエスが12歳の時に過越祭の時にエルサレムに来て、家族と離れ一人神殿に残っていたときに、神殿を自分の父の家にいるのは当たり前だと言った、なんてことも書かれてはいるけれど、イエスは神殿をどのように思っていたんだろうか。神殿で商売をしていることだけを批判しているんだろうか。それとも神殿で犠牲を献げることで赦されるという神殿そのものを批判しているんだろうか。
よく見るとここでイエスは、神殿は祈りの家だと直接的に言っていない。祈りの家と呼ばれるべきだと書いてあるではないかと言っている。どうして直接祈りの家だと言わなかったんだろうか。イエスは神殿がどうなればいいと思っていたんだろうか。商売人が神殿から出ていけばそれで良かったんだろうか。
イエスは、神殿が祈りの家になってないことに怒っているのではなくて、神殿は祈りの家だと言いつつ、そこで面倒な決まり事を作って庶民を苦しめている、まさに強盗のようなことをしている、そんなユダヤ教のシステムに腹を立てているということじゃないかという気がしている。
祈り
翌朝いちじくの木が枯れているという話しになるけれど、その後は祈りの話しになっている。神殿はどうあるべきとか、あるいはそもそも神殿は必要なのかどうかについて話してほしかったという気がする。
神殿が祈りの家であるべきという話しだったのでこういう話しになっているのだろうと思うけれど、祈りの話しは本当はもっと別の機会に話されたことだったんじゃないかなと思う。
それはさておき、ここでイエスは少しも疑わず自分の言うとおりになると信じるならば、その通りになる、なんて言っている。
山が海に飛び込むというのを初めて読んだ時、本当に山が海に飛び込めばいいなと思って、山に向かって海に飛び込めと言った。けれど飛び込まなかった。少しも疑わず自分の言うとおりになると信じていたかと言われたら、実際は全然そんなことないし、本当にそんなことになったらその辺りの家はどうなるんだろうなんて思いつつでもあった。
信仰が足りないからなのだろうかとか、疑いを持っているからだろうかとか思わないでもなかったけれど、やっぱり流石にそんなことはないよなと思った。
「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい、そうすればそのとおりになる」なんて言われてもそんなに信じられないよというのが正直なところだ。
だいぶ後になって、祈りとは神を変えることではなく、祈る者が変えられることだなんてことを聞いて、ちょっとびっくりした。
そうすると祈りとは、あれとこれとそれをどうかしてください、と神の気持ちを動かして自分の願いを叶えて貰うことではなく、祈る事で神の声を聞き、祈る者の気持ちや行動が変えられていく、それこそが祈りということかなと思う。実際はいまだによくわかってないけれど。
イライラ
いちじくを呪ったり、商人を追い出したり、両替人の台や鳩を鳩を売る者の腰掛けをひっくり返したり、イエスはこのころやっぱりだいぶイライラしてたんじゃないのかなと思った。下っ端の商売人をやっつけても仕方ないだろうに。大元の黒幕をやっつけないといけないだろうにと思う。
イエスは凡人とは違っていつも冷静沈着なのかと思っていた。だから何をするにしても深い意味があってしているのかと思っていたけれどどうなんだろうか。
イライラすることもあったんじゃないかという気がしている。自分が非難している律法学者やファリサイ派の言わばユダヤ教の総本山へ乗り込んで行っているわけで、相当は緊張感もあったんだろうと思う。
そんな時に自分の願いとかけ離れた現実にイライラすることもあったんじゃないだろうか。いちじくの実がないこともそうだし、庶民から搾取して苦しめている現実を目の当たりにして頭にきての振る舞いだったのかなという気がしている。
イエスは神の子だからそんなことはないと思ってきたけれどどうなんだろうか。人間でもあり神でもあるなんてことも聞くけれど、人間でもあるならば腹を立てても不思議ではないと思う。
イエスは感情のない人間ではなく、感情のある人間なのだと思う。人間の喜びや悲しみを経験していたのだろうと思う。イライラすることもあったのではないかと思う。
でもそんなイエスだからこそ、私たちの喜びも悲しみも苦しみも分かってくれているのではないかと思う。