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礼拝メッセージより
子ろば
そう言えばロバを実際に見た記憶がないと思って調べたら、「日本のろばは200頭という節もあり、多くとも数百頭でろう、と書いてあった。とても頑丈で粗食に耐え、今でもアラビア半島や発展途上国などで4000万頭以上が人や荷物の移動に利用されている、なんてことも書いてあった。
荷物を背負ってとぼとぼと歩くおじいさんに連れられてゆっくり歩いているという感じの映画を見たような記憶があるけれど、馬のように戦争の最前線で役に立つ動物ではないそうだ。
旧約聖書の規定では、すべての家畜の初子、つまり最初の子は神へのささげ物としなければならない、とことになっていた。しかし、ろばの子は例外だった。ろばの子はささげなくてもよかった。(「ただし、ろばの初子の場合はすべて、小羊をもって贖わねばならない。もし、贖わない場合は、その首を折らねばならない。あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない。」 出エジプト記13:13 )
ろばというのは大した動物ではなかったということか。神にささげるものとしては役に立たないものだということだったのかもしれない。馬や牛を持てない庶民はろばがその代わりとなっていたようだ。
エルサレム入城
イエスはそんな子ろばに乗ってエルサレムに入っていった。普通新しく権力者になるものは馬に乗って都へ入っていった。戦争に勝って、相手を征服したときには、馬に乗って相手の都へ入っていった。
という風に馬は権力の象徴でもあり、また軍事力でもあった。旧約聖書の箴言21:31に「戦いの日のために馬が備えられるが、救いは主による」という言葉がある。支配者は、俺はこんなに強いんだ、こんなに軍事力があるんだということを見せつけるためにも馬でやってくるそうだ。
しかしイエスは子ろばに乗ってエルサレムへ入城した。
その子ろばを連れてくるようにとイエスは弟子たちに命令したと書いてある。主がお入り用なのですと言われたら許してくれた、と言うのはどういうことなんだろう。
イエスが神の力を発揮して仕組んだことのように書かれていて、実際そうなのかもしれないけれど、「向こうの村」というのがベタニアだとすると、そこにはマルタとマリアなどイエスのことを知っている人達がいたようで、イエスの頼みであるならばということで許可してくれたということなのかなと思う。
ホサナ
二人の弟子が連れて来た子ろばに自分の服をかけるとイエスはそれに乗った。群衆は上着を道にしき、葉のついた枝を敷いてイエスの道を飾った。そして「ホサナ」と言ったとある。これはもともとは「お助け下さい」、「今、救ってください」と言うような意味があったそうだが、その当時には王を迎える言葉としての決まり文句のようになっていたらしい。
服や葉の着いた枝を敷いたりホサナと叫ぶというのはまるで王を迎える時のようだったのだろうけれど、そこへやってくるのは多分ふらふらしながらやってくる子ろばに乗り、田舎者の弟子たちを従えた一人のおじさんなわけだ。
ホサナとは言っているけれど、それはメシアがやってきたという心からの歓喜の声ではなく、面白がっていった言葉であったのではないかという気がしている。たまたまロバに乗ってやってきたイエスを見つけて、それを面白がって王の入城のようにして迎えたというお遊びだったような気がする。
「主の名によって来られる方に、祝福があるように」という言葉は、詩編118:25-26の引用で、エルサレム巡礼の時によく歌われていた賛歌だったそうだ。エルサレムにやってきたことをみんなで喜び歌を歌っていた、そこに丁度子ろばに乗ったイエスを見つけて、ここに王もいるぞ、と盛りあがったってことなんじゃないだろうか。王を迎えるまねごとをしながら、みんなでふざけて楽しく歌っていたということなんじゃないかという気がしている。
イエスがなぜ子ろばに乗ったのかという理由は分からない。子ろばを連れてくるように弟子たちに命じたときにもその理由を言っていない。しかし後々になってあの時は半分ふざけた遊びだったけれど、実は救い主のエルサレム入城にふさわしい出来事だった、ホサナという言葉はイエスにふさわしいかけ声だったという風に理解されたということなのではないかと思う。
その根拠となるのが旧約聖書ゼカリヤ書9:9の言葉だったようだ。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。」
マタイによる福音書の21章にもこの時のことが書かれているけれど、マタイはこのゼカリヤ書の言葉を書いている。
福音書をまとめたマルコは、イエスが旧約から約束されていたメシアであり、平和の君であるということを伝えようとしているのだと思う。
しかしこの時のイエスの気持ちはどんなだったんだろうか。イエスはゼカリヤの言葉を意識して子ろばに乗ってエルサレムは入っていったのだろうか。旧約聖書に約束されたメシアだということを見せつけようとしたのだろうか。
エルサレムに近づいて来た時にイエスが何度か自分の死と復活を予告したなんてことが書かれている。自分の行く末を詳細に分かっていたとは信じがたいけれど、少なからず諍いが起こりかねないこと位は感じていたのだろうと思う。いよいよエルサレムへ入っていくという時のイエスの心情はどんなだったんだろう。ホサナと言って迎えられたとしても、悠々と晴れ晴れとした気持ちでいたわけではなかったんじゃないだろうか。
そもそもどうしてエルサレムへやってきたんだろうか。そんな命の危険が迫るようなところへわざわざやってきたんだろうか。
子ろばにのって
イエスは社会から差別され除け者にされ苦しめられている人たちに寄り添って生きてきた。その根源であるエルサレムへ行く必要があったのだろうか。
イエスは自分のことをほとんど理解していない人たちの中を進んで行く。子ろばにのって進んで行く。どんな思いを持っていたのか知りたい。そこからイエスの真の姿が見えてくるのではないだろうか。