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礼拝メッセージより
叫び
今日の聖書の箇所に、神に願いをぶつける人の話が出てくる。
エリコ−エルサレムの東北東27キロ位。もうすぐエルサレムというところ。11章ではエルサレムに入っていく。そしてそこで十字架につけられる。十字架を目前にした時での出来事である。
ここに盲人の物乞いであるバルティマイという人がいた。ティマイの子だと書いてあるように、バルとは子のことで、バルティマイと名前自体がティマイの子という意味になる。
このバルティマイはナザレのイエスと聞いて叫びだした。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。当時ユダヤ人たちは、自分達の国を強くし外国の支配を排除する、かつてのダビデ王のようなメシアが現れると期待していたようで、ダビデの子というのはキリストのことを指すようだ。つまりイエスをキリストだ、救い主だと告白しているということになるようだ。
彼はイエスの噂をかねがね聞いていたのだろう。そしてこの機会を逃してなるものかと思ったのだろう。今日しかない、今しかない、イエスに会うには今この時しかない、と思ったに違いない。そこで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けたようだ。
多くの人々はバルティマイを黙らせようとしたと書いてある。群衆にとってこのバルティマイの叫びは失礼な、非常識なふるまいだったのだろう。お前みたいな物乞いは静かに控えていなさい、ということだったのだろう。にこやかにイエスに付いてきていた群衆にとっては邪魔な者としか思わなかったのだろう。
しかしバルティマイは何度も叫び続けた。そしてイエスは彼の声を耳にして、彼を呼んだ。イエスが自分のことを呼んでいると知ったバルティマイは上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た、と書いている。
夜になればその上着を着て寝て、昼間は施し物をもらうために上着を地面に広げるような人がいたそうだ。病気のもの、障害を持つものが罪人と考えられていた当時、彼は一人前の人間としては認められていない存在だったようだ。憐れみを受けることでしか生きていけない存在だったのだろう。その彼にとって、上着はほとんど唯一の持ち物だったのだろうと思う。その上着を脱ぎ捨て躍り上がってイエスのところにきた。彼の喜びはそれほどに大きかった。人生で最も大きな喜びだったのかもしれない。
バルティマイはイエスに向かって何度も何度も叫び続けた、「憐れんでくれ、憐れんでくれ」と叫び続けた。自分は憐れみを受けなければいけない人間なんだ、憐れみが必要な人間なんだと自分で認めている言葉だ。そんな惨めな人間だということを自分で認めている、自分ではどうしようもない人間なんだということを自分で認めている、だから「憐れんでください」という言葉になったのだろう。
人間にはプライドがあって、自分で自分のことをだめだとか、惨めだとか、口では言いながら実は心の底ではあまりそう思ってもないことが多い、と思う。本当に自分が駄目だと思っている人は自分からはあまり言わないように思う。「わたしはだめだから」という人ほど「わたしはだめではない、だめではいけない」と思っているなんて聞いたことがある。「あなたはだめではない」とか「あなたはすばらしい」とか言ってもらいたいために、「わたしはだめなのよ」と言うこともあるそうだ。
何を
彼を呼び寄せたイエスは「何をしてほしいのか」と問う。
バルティマイは「先生、目が見えるようになりたいのです」と答える。
バルティマイは目が見えるようになることをイエスに求めている。盲人に向かって何をしてほしいのかと聞くならば、当然見えるようになることだと答えるような気もするが果たしてそうなのだろうか。
自分だったら目が見えるようになるなんてどうせ無理だから、そんな大それたことよりもお金を恵んでほしいとか、綺麗な服が欲しいとか、大きな家が欲しいとか言いそうな気がする。
「何をしてほしいのか」という同じ言葉が10:36にもある。12弟子の内のヤコブとヨハネは、イエスが栄光を受けるときに一人を右に、もう一人を左に座らせてくださいと言った。
二人の弟子の願いとバルティマイの願いは本質的に随分違っている気がする。
しかしバルティマイは自分にとって一番必要な物が何であるか、そのことをよく分かっていたし、それを口にすることも出来た。「目が見えるようになりたいです」ということは案外言えない言葉だったのではないかと思う。
心の奥底の願いをバルティマイはイエスにぶつけた。さて、わたしたちはそんな思いを神にぶつけているだろうか。
神に向かって、イエスに向かってどこまで心を開いているだろうか。神に何を願っているか。偉くなりたいとか、金持ちになりたいとか、家内安全であるようにとか、病気を治して欲しいとか、いろいろある。では一体その願いが自分にとってどれほど重要なことなんだろうか。もちろんどれも大事なことには違いないが、自分の人生にとってなくてはならない重大なことを神に願っているだろうか。
信仰
イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言った。盲人が見えるようになりたいと願う、そのことをイエスは信仰と言われている。
同じ言葉が5:34にもある。12年間出血が止まらない女性が、後ろからこっそりイエスの服に触れて癒されたときにも、イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言っている。
目を見えるようにして欲しい、出血の続く病気を治して欲しい、その思いをイエスはあなたの信仰だと言っている。単純明快だ。
逆に言うと、こうして欲しいという願いを持つこと、それは立派な信仰ということになる。
実はイエスは私たちの心の奥底にある願い、悲しみ、苦しみを自分にぶつけて欲しいと思っているんじゃないだろうか。
イエスに何をしてほしいのかと聞かれる時、私たちは何と答えるのだろうか。