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礼拝メッセージより
ぼろくそ
今日の箇所は読めば読むほどパウロの圧というか熱というか、それを感じる気がする。あの犬どもという言い方からしてもパウロは頭に血が上ったような思いでいて、だからぼろくそに語っているんだろうと思う。
読む方もそんなパウロの気持ちを考えながら読むことでパウロの思いがよく分かるのではないかと思う。
手紙
フィリピの信徒への手紙は、もともとは三つの手紙だったものを一つにまとめているそうだ。3:1までは喜びという言葉が何度も出てくるように、とても和やかな雰囲気だったのに、3:2では突然、あの犬どもに注意しなさいなんてことになっているのは、どうやらここから別の手紙だからのようだ。
犬ども
3:2からパウロは自分が敵と考えていた人たちのことを語り出しているようだ。
パウロはその人たちのことを、犬ども、よこしまな働き手、切り傷にすぎない割礼を持つ者たち、と散々な言い方をしている。割礼の話しが出ているように、これはユダヤ人キリスト者のことを言っているようだ。
ガラテヤの信徒への手紙にもあったように、キリスト者も割礼を受ける必要がある、イエスを信じるだけではなく割礼を受けることで完全になるというようなことを教えている人たちがいたようだ。そもそもユダヤ人キリスト者が多かったエルサレムの教会から派遣されて、そのように教えている人たちがいたのだろう。
パウロは後半に書かれているように、自分はユダヤ人として生まれて割礼も受けているけれでも、異邦人であるキリスト者にも割礼を受けさせようとする考えに断固として反対している。
そして割礼が必要だと主張するユダヤ人キリスト者のことを、悪し様に非難している。ユダヤ人は犬を穢れた動物だと考えていたそうであの犬どもという言い方は相当侮辱した言い方だったのだろう。よこしまな働き手というのも邪悪な者たちというようなことだし、さらにすごいのが切り傷にすぎないあ割礼を持つ者たちというのは相当に馬鹿にしたというかおちょくった言い方だ。
割礼は男性器の包皮を切除することだけれど、ユダヤ人たちは割礼を受けることが神との契約を守ること、そうすることで神との正しい関係を持っていると思っていたようだ。だからこそ割礼を受けることを大切なことと考えていたようだけれど、それをパウロはただの切り傷だと言っている訳で、これを聞いたらユダヤ人たちは憤慨するに違いないと思う。
肉に頼る
パウロがユダヤ人でありながら、また自分も割礼を受けているのにそこまで言うということはすごいことだと思う。
それはユダヤ人たちが割礼を受けていることで、神の祝福とか救いの象徴であり、更には穢れている異邦人とは違う神に選ばれた民であるというような特権意識を持っていたのだろう。そのことを自慢げに思い、そうでないものを見下していたのだろう。
自分自身の中にすがるものを持とうとしてきたというか、これがあることで安心できるもの、自慢出来るもの、その象徴が割礼だったのではないかと思う。
パウロ自身もかつてはそんな肉に頼る思いをもっていたようだ。実は誰よりも持っていたのかもしれない。5-6節でそのことを語っている。ユダヤ人の中で誰よりも自慢出来る、自分は主席だと言っているみたいだ。
しかしパウロはユダヤ人として自慢に思っていたことを損失と見なすようになったと言っている。
糞土
そう思うようになったのは、主キリスト・イエスを知ることがあまりにすばらしいからだと言っている。そして他の一切を、それはつまり割礼をはじめとする、かつてユダヤ人として自慢に思っていたことすべてを損失、塵あくたと思うようになったと言っているようだ。
新共同訳では塵あくたと訳しているけれど、口語訳では糞土となっていたと思う。ゴミとか屑というような意味の言葉らしいけれど、糞とか糞尿というような意味もあるみたいだ。関係ないけど、ずっと昔アメリカから来ている宣教師が、聖書の中にうんこが出てくるとニヤッと笑いながら話してた。ここを読む度に思い出す。
キリストを知る
パウロは、かつて自慢に思っていたこと、生きる支えと思っていたこと、それを糞土と見なすようになったのはキリストを知ったこと、そのすばらしさがあったからだと言っている。
そしてわたしには律法から生じる義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があると語っている。
義というのはなんだか分かるような分からないような言葉だけれど、神との正しい関係、神から責められる関係ではなく、神から正しいと認められる関係、神から大事にされる愛される関係というようなことではないかと思う。
キリストを知るすばらしさとは、そういう神との関係を知ったというすばらしさということなんだろうと思う。つまり自分が間違いなく正しいことを行うことで自分の中に正しさを持とうとする思い、自分を正さないと認められない愛されないという思い、そんな思いから解放されて、神から自分を認めてもらっている、大事に思われている、愛されている、そんな思いへと変えられたというすばらしさだったのではないかと思う。
だからこそそんなすばらしさを否定するようなことを主張するユダヤ人キリスト者のことをパウロはぼろくそに言って、2節では注意しなさい、気を付けなさい、警戒しなさいと3回も繰り返して、呉々も用心するように言っているのだろう。
と分かったようなことを言っているけれど、パウロが言うイエスを知ることのすばらしさを自分が知っているかと考えると心許ない。パウロが言うほどすばらしいと思ってはいないように思う。
パウロが言うほどに、他のことを糞土と思う程に、イエスを知りたいと思う。