【礼拝メッセージ】目次へ
礼拝メッセージより
喜び
フィリピの教会はガラテヤやコリントの教会に比べて問題の少ない教会だったようだ。けれでも全く問題がないというわけではなく、問題の種というようなことはあったようだ。
1:28には「どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。」とあり、また3:18では「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。」と言われているように、反対者や敵対者というような人たちの脅威というか影響があったようだ。
自分がほめられるために、自分が有名になるために、自分にちやほやしてもらうために神の名を、キリストの名を利用するようなことをしていたということだろうか。自分の方が信仰深いとか、いっぱい奉仕をしているとか、いっぱい献金をしているとか、そのことを自慢したいし認めてもらいたいというような思いを持っている人がいたということかなと思う。
そしてそんな人たちがいることが教会の中での不一致の原因となるとパウロは心配しているのではないかと思う。
一致
パウロはフィリピの教会に対して、そんな反対者たちにしっかりと対抗して一致するようにと語る。「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」(2:1-2)
幾らかでもという言い方が面白いけれども、キリストに愛されている、キリストに生かされている、キリストによって赦されている、聖霊によって慰められている、そして慈しみや憐れみの心、そんな気持ちがほんの少しでもあれば一致できると言っているようだ。そしてそうやって一致することはパウロ自身の喜びである、パウロの喜びを満たすことであるというのだ。
一致というのはみんなが同じになること、違いが全くなくなることではないだろう。みんなが同じことを考え、同じように感じて、同じ服を着て同じことをするということではないだろう。
そうではなく、キリストの下に集まっていること、キリストの十字架の下に集まっている、キリストの十字架という一つのところにとどまっている、そういう一致なのだと思う。教会がよく身体のそれぞれの部分にたとえられるけれども、いろんな違いを持った者たちがキリストを頭として一つの身体を形づくるように、それぞれに置かれた場所にいること、それが一致なのだと思う。だから一致していてもみんな違うのだ。
そうやって集められている中で、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことをだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と言うのだ。
キリスト賛歌
しかし人間は、いつも自分の方が優れていると思いたいし、自分の方が優れていると思えれば安心するというようなところがあるんじゃないだろうか。だから相手の方が優れていると思うなんてことが本当に出来るのかという気もする。
しかしそれこそがキリストの歩まれた道である、それこそがキリストの本質なのだとパウロは語る。
6-11節はキリスト賛歌と言われていて当時の讃美歌だったと考えられているそうだ。
キリストは神の身分でありながら、神であるのに自分を無にして僕となり、奴隷となり、人間となった。そして死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順だったと言うのだ。
人は上昇志向があるあらしくて、上へ上へのぼろうとする。有名になって、みんなから誉められて自慢したいという気持ちがあるように思う。俺はすごいんだ、どうだ見たか、と言いたいという気持ちがあるように思う。そこまで思わなくても、まわりから賞賛されたい、すごいと言われたいという気持ちは誰にでもあるんじゃないだろうか。
しかしキリストは反対に下へ下へと向かっていった。神ならば一番高いところにいればいいようなものだが、そして見下ろしていればいいようなものだが、神でありながら一番低いところ、死に至るまで、十字架の死に至るまで下へ向かって進んでいった。
それに続く9-11節はよく分からないけれど、聖書は自分を低くするものだけが高くされると繰り返し語っていて、イエス自身がまさにそうだった。イエスにならうこと、それが私たちの生き方であるとパウロは語る。周りの人に優れた者と認めてもらうためにいいことをするのではなく、反対に周りのために自分を差し出すこと、自分を献げること、それがキリストが私たちに示された道なのだと言っているようだ。
愛
イエスが私たちを愛してくれたから、自分の命まで献げて、私たちのところまでやってきてくれたから、私たちはイエスをキリスト、救い主、主と告白するのだ。
バークレーという人の注解書にこんなことが書いてあった。
『それでは、礼拝はどこから生まれるものであろうか、注意深く目を留めてみよう。礼拝は、「愛から生ずる」。
イエスが人々の心を勝ちとられたのは、権力を振り回してではなく、人々の心を感動させずにおかない愛と、自己犠牲と献身を示されたことによる。イエスは人々の面前でご自身の栄光を捨てられ、その人々を十字架の死に至るまで愛された。その愛によって人々の心が和解し、その反抗が打ち砕かれるのである。人々がイエス・キリストを礼拝するのは、服従させられたからではなく、すばらしい愛を知ったからである。わたしたちは、「これほどの権力には反抗できない」というのではなく、「こんなにすばらしい神の愛が、わたしの人生と魂と全存在とを支配しておられる」といい表すのである。
わたしたちは、「戦いに敗北した」とはいわずに、「奇跡と愛と賛美のとりこになった」という。人間を、降伏した敗北者に変えるのはキリストの権力ではない。人々を、キリストのみ前にひざまずかせるのは、すばらしいキリストの愛である。礼拝は恐怖から生まれるのではなく、愛に根ざしている。』
私たちは神に脅かされたから神を信じているのではない。従わないと地獄に落としてやる、と言われたから礼拝しているのではない。神に愛されていることを知ったから信じ礼拝しているのだ。イエスが人間の形となって、間違いだらけの私たちのところまで降りてきてくれたから、そんなに愛してくれているから、だから信じているのだ。
すべてを捨てて
ひところあるカルト教団のことが話題になったことがあった。自分の子どもが入会してしまって、その子どもをどうやって救出すればいいか、というような本も出ていた。マインドコントロールされている子ども達を救出することは一筋縄ではいかないことが書かれていた。
その中で救出に成功する時と失敗する時があって、例えば父親が母親に向かってお前がしっかり教育しないからだとか、子どもに向かってそんなことでどうするんだ、お前は間違っている、というように言うときは救出できないそうだ。救出するときには子どもを連れて教団に知られていないどこかの旅館などに何日も詰めて話し合うそうだが、そんな時に親が会社があるから、別の用事があるから、あとは牧師に頼む、というような時にも失敗するそうだ。
救出に成功するのは、親が子どものためならば仕事も辞める、世間体も親のメンツも捨てる、それほどの覚悟を持っている時だけなのだそうだ。結局はどれほど子どもを大事に思っているか、愛しているかなのだそうだ。子どもよりも自分の仕事、世間体やメンツを大事にしている間は子どもを助けることはできないと書いていた。しかし全てを捨てるならば子どもを助けることができ、そうするとそこからは今までになかったとても素敵な親子の関係を持つようになるそうだ。
めっちゃ愛されている
そんな話しを聞くとすごいなと思う。自分は面子とプライドの塊なので、子供を救い出した親のように、子供を愛するなんて全然出来てないように思う。何をするにしてもまわりの目を気にして、自分の評価がどうなるかなんてことばかり考えている。本当に愛のない人間だと思う。
イエスはどんな思いで生きていたのだろうか。どんな思いを持って虐げられた人たちや差別されている人たち、弱く小さい人たちに寄り添っていたのだろうか。どれほどの愛を持ってその人たちと接していたのだろうか。
カルト教団から子供を救い出した親のように、すべてを投げ捨てるような思いを持って、それほどの愛を持っていたということなんだろうか。
きっとそうなんだろうな。そしてその思いを持って私たちをも見つめてくれているのだろう。それほどの愛を私たちにも注いでくれているのだろう。
今日はペンテコステで、十字架を前にイエスを見捨てて逃げていた弟子たちが、イエスが救い主であると堂々と語り始めた日ということになっている。
使徒言行録ではその日弟子たちが聖霊に満たされて語り始めたと、印象的に書かれているけれど、弟子たちがそうなっていったのは、やっぱりイエスの愛を知り、その愛をしっかりと受け止めることができるようにようになったからなんじゃないかと思う。
自分でも自分を愛せないような人間なのに、こんな自分をどうしてイエスは愛してくれるのか不思議に思う。それは簡単には納得できないようなびっくりするようなことだ。
12節に「恐れおののきつつ」なんて言葉がある。自分が望んでいることや期待してことが起こると嬉しい気持ちになる。しかし望んでいること以上のこと、思いもしないような嬉しいこと、予想を遥かに超えるような嬉しいことがあると、嬉しい以上に震え上がるような思いになるんじゃないかと思う。
イエスはそれほどに、私たちが震え上がるほどに、私たちを愛してくれているということなんではないだろうか。
イエスのそんな愛を知っているか、その愛を受け止めているか、是非受け止めて欲しい、パウロは私たちにそう問いかけているのではないか。