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礼拝メッセージより
手紙
パウロは目が不自由だったようで、多分小さいも文字を書くことも難しかったのだと思う。そこでパウロの手紙も一部分を除いては、パウロが語ったことを別の人が筆記しているみたいだ。自分で手紙を書くときにはそれなりに時間もかかるから、頭の中で推敲しながら整理しながらまとまった文章も書けると思うけれど、喋る時というのは思い浮かぶことをすぐに口にすることが多くて、いろんな話しへと場面がどんどん変わっていくように思う。多分そんなこともあってパウロの手紙は糸が絡みまくっているような気がしていて、それで分かりにくいんだろうなと思っている。手紙ではなくて論文のようにテーマ毎にまとまっていれば分かりやすかったのになあと思う。
二者択一
ガラテヤの教会にやってきたユダヤ主義の人達の主張は、イエスを信じることも大事だが割礼を受けることも大事なのだ、と言っていたようだ。
ユダヤ教では律法を守ることが大事で割礼はその象徴的な行為だったようだ。ユダヤ人は、勿論男だけだけれど、産まれて8日目位に割礼を受けて、律法を厳格に守って生きてきた。そういう生き方が染みついていたのだと思う。
パウロもユダヤ人としてそんな生き方をしてきていたようだ。というか誰よりもそのことを大事に思っていたらしくて、律法を軽んじるようなイエスを否定しキリスト者たちを迫害していたようだ。
しかしイエスのことを知り、イエスと出会うことによってパウロは自分の生き方を全面的に変えられてしまった。律法を守ること、守ろうとすることでは救われないということを、イエスと出会うことで知ってしまったんだろうと思う。
パウロは2節で「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の訳にも立たない方になります」と言っている。律法か、キリストか、そのどちらを選ぶか二者択一の問題だと言っているようだ。4節にも「律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みを失います。」と言っているように、どっちも取るなんてこともできない、どっちを取るかなんだと言っているようだ。
律法を取るなら律法を完全に守るしかない、割礼を受けるなら律法全体を守らないといけないという。
一方ユダヤ主義の人達はどっちか選ぶようなことではなく、律法も大事だしイエスも大事、イエスを信じることも大事だけれど、割礼を受けることも大事、両方を大事にしなければと語っていたんだろうと思う。産まれてからずっと大事にしてきたものを軽んじるなんて出来ないというような思いがあったのかなと思う。そして割礼を否定するパウロに対抗するような気持ちもあったのかもしれないなという気もする。
つまずき
パウロはどうしてここまで割礼を全否定するんだろうか、というかどうして律法を全否定出来たんだろうか。
11節でパウロは「兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。」と語っている。
この「十字架のつまずき」という言葉が気になっている。
割礼を宣べ伝えていれば迫害をうけることもなかったでしょう、というならば分かりやすい。けれど割礼を宣べ伝えているならば十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう、と言っている。
十字架のつまずきってなんなんだろうか。よく分からないけれど、兎に角パウロは十字架につまずいたということなんだろうと思う。というか、十字架につまずいたから、割礼を受けるならキリストは何の役にも立たないとか、律法によって義とされようとするならキリストとは縁もゆかりもない者とされる、いただいた恵みを失います、なんてことを言うようになったのだろうと思う。
イエスの十字架は何だったのか、どうしてイエスは十字架につけられたのか、どうしてそこで殺されなければいけなかったのか、それは簡単に納得できるようなことではないということなんだろうと思う。こういうことですよ、と簡単に受け止められるようなことではないということなんだろうと思う。
もうすぐペンテコステだけれど、生前のイエスに従っていた弟子たちは十字架を前にしてみんなイエスを見捨てたと書かれている。聖書にはその後50日目になって、イエスがキリストであると堂々と語り出したと書かれている。
弟子たちもみんなイエスの十字架につまずいたのだろうと思う。イエスの十字架はなんだったのかとずっと悩んだんだと思う。
パウロもイエスの十字架につまずき、そこで悩み苦闘し、しかしそこから律法からの自由、あらゆる束縛からの自由を見つけたんだろうと思う。あるいは感じとったんだろうと思う。
満点
パウロにとって十字架は、イエスが自分を完全に受け止めてくれているしるし、自分を完全に認めてくれているしるし、完全に愛してくれているしるしであったのではないかと思う。
パウロにとってイエスの十字架はそれだけで満点だったのではないかと思う。それに対してパウロの後にやってきたユダヤ主義的な指導者は、満点ではないと言っていたのかなと思う。彼らもイエスをキリストだと思っていただろうからイエスを否定していた訳ではなかったのだろう。50点か、90点か、99点か分からないけれど、イエスの十字架だけでは満点ではないと言っていたのだろうと思う。そこに割礼を足せば満点になる、そんなことを言っていたんじゃないかな。
パウロはイエスの十字架だけでは満点ではないというようなことに猛烈に反対しているような気がしている。十字架で満点なんだ、それだけで完璧だ、完璧な救いなんだ、ということを必死に訴えてるような気がしている。
十字架のつまずき
私たちもイエスの十字架にもっとつまずかないといけないのかもしれないと思う。私たちのためにとか、私たちの身代わりとしてとか、贖いとなってとか、そういう言葉は知っているけれど、そこで立ち止まって考えることもなかった。あるいは三日目に復活しました、良かった良かった、神さまはすごい、というふうに十字架を素通りしてしまっているような気がしている。
つまずかないと見えてこないもの、つまずくことで初めて見えてくるもの、そんなものがあるような気がしている。
パウロはイエスの十字架につまずくことで、イエスと出会ったのだろうと思う。そこで自由と愛を見つけたのだろうと思う。
実は私たちがつまずき倒れたところ、そこにこそイエスはいてくれているのではないだろうか。