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礼拝メッセージより
奴隷
パウロはここまでに、私たちは律法を守ることによってではなく、ただ神の憐れみによって救われ、神の相続人にされている、という話をしてきた。それなのに、なぜこの信仰を持つ前の生活にもどろうというのかと問い掛ける。神を知らなかった時、もともと神でない神々に奴隷として仕えていた時に戻るのはなぜなのかと問いかける。
今は神を知っているのに、いやむしろ神に知られているのに、どうして以前に逆戻りしようとするのか、また無力で頼りにならない支配する諸霊の奴隷になりたいのかと問い掛ける。
ガラテヤの教会の人たちは今は神を知っているのに、むしろ神に知られているのに、どうして逆戻りしてしまうのかと問う。
神に愛されている、大事にされていることを知ると言うこと、それが神を知るということでもある。
私たちが何かをしたからとか何かになったから、いいことをしたから命令を守ったから、あるいは立派になったから神が愛してくれるのではない、合格点をもらってはじめて神が振り向いてくれるのではない。何もない何もできない、なのにそんな私たちを神が愛している、そしてそのことを知ること、それこそが神を知るということなんだと思う。
そんな神の愛があるのに、どうしてまた逆戻りしてしまうのか、とパウロは嘆く。何かをしなければ、というような恐れを持つ必要などなくなったのに、そんな心配をしなくてもいいことを伝え、そのことを一緒に喜んだのに、どうしてまたいろいろなしがらみに戻ろうとしているのか、とパウロは嘆いているようだ。
病気
パウロはガラテヤの地方に伝道しはじめた当時のことを思い出させる。彼が、ガラテヤの地方に伝道し始めたのは病気であったからだという。病気療養のためにやってきたということなんだろうか。その病気がなんであったのかはよくわからないが、ガラテヤの人たちが、自分の目をえぐり出しても与えようとした、ということから目の病気であったのかもしれない。しかもそのことが試練ともなるようなことであったと言っているということは、世間から毛嫌いされているような病気だったのかもしれない。当時は病気は罪の結果であるというような考えでもあったようなのでそういう見方をされても不思議ではなかったのだろう。
そんな状態のパウロをガラテヤの人たちはさげすむことも、忌み嫌うこともなく、神の使いかキリストででもあるかのように受け入れてくれたという。パウロが語る福音を聞き、それを喜んで受け入れたからこそそのように接してくれたのではないか。なのに、あの時の幸福はどこにいったのか、あの時の感激はどこにいってしまったのか。福音を知ったことを喜んだのではなかったのか、とパウロは言う。
福音
しかしどうしてガラテヤの教会の人たちはパウロの告げた福音からそれてしまったのだろうか。直接的にはエルサレム教会から来た人達から、律法も大事だ、割礼を受けないと救われないと聞かされたことが原因だったのだろう。けれどそう言われてすぐになくなってしまうような福音だったのだろうか。
パウロは私たちが神に義とされるのは、つまり神に良しとされるのは律法を行うことではなく、それは人間には無理なことであって、そうではなく信じることだという。
では何をどう信じることがパウロの言う福音なんだろうか。パウロの伝えた福音とはどういうものだったのだろうか。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(2:20)
「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(3:27)
「それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」(4:5)
「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、、」(4:9)
「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」(4:19)
パウロの告げる信仰とは、キリストがわたしの内に形づくられること、キリストがわたしの内に生きること、なのだと思う。キリストを着るという言い方もしているけれど、キリストを自分の心の中に迎え入れる、自分の心の中にキリストがいる、それがパウロの伝える信仰なんだと思う。
キリストが目の前に現れて私たちの願う物をもってきてくれるとか、私たちの願うような奇跡を起こしてくれるとか、そういうことではなく、キリストが私たちの心の中にいてくれる、それがパウロが伝えた信仰であり私たちの信仰でもあるのだと思う。しかもそれは私たちがキリストに来てくれるように願い求めて叶うことではなく、むしろキリストの方が私たちの心の扉を叩いてくれて、私たちはただ心の扉を開くだけでキリストが来てくれるということだ。キリストの方が私たちを知っていて、キリストの方が私たちを愛してくれているということだ。
キリストが心にいるというのは、キリストの言葉、キリストの思いを身に受けているということだろう。お前はお前で良い、お前が大事だ、お前の全てが大事だ、お前を愛している、そんなイエスの言葉をしっかりと心に秘めておくということなんだと思う。
私たちの存在そのものを徹底的に肯定してくれている、私たちのダメさもだらしなさも不信仰も何もかも知っていて、でもそんなものもまるごとひっくるめて、お前たちはここに居ていい、生きていていい、私にとっては大事な大事なひとりだ、イエスはそう言ってくれているように思う。
パウロもそんなイエスの言葉を聞き、そんなイエスを伝えたんだろうと思う。
3章1節では「ああ、物わかりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」と言っている。パウロは復活の姿ではなく十字架につけられた姿だと言っている。パウロの心の中には、神々しい力強いイエスではなく、十字架につけられるまでに自分のことを徹底的に愛し、徹底的に肯定し、徹底的に赦してくれたイエスがいるんだと思う。その十字架のイエスがあなたたちの心の中に示されたではなかったのかと言っているようだ。
律法を守ることも大事だということは、そんなイエスの言葉を否定する、イエスを否定することだ、と言ってるような気がする。私たちの存在を徹底的に肯定するイエスの言葉を否定し、そんなお前ではダメだ、まだまだダメだ、あれもこれもしないとダメだ、そう言われているようなものなんだと思う。
律法を守らなければならないということは心の中のイエスが消えてしまうことだと言っているじゃないかと思う。
嘆き節
この手紙をパウロはちょっときつい言葉を使いつつも冷静に書いている(喋っている)ものと思っていた。けれど今回どうも違うような気がしている。
パウロは努めて冷静に語りかけているようでありつつ、内心は怒りというか嘆きというか、そんな思いでいるような気がする。
律法を守ることも必要だと伝えた「あの者たち」に対する怒り、そしてその教えになびいてしまっているガラテヤの教会の人たちに対する嘆き、そんな思いが交錯しているように思う。特に15節以下などはほとんど怨み節になっているような気がする。
パウロは情熱的な人だったんだろうなと思う。冷静に淡々と話すような人ではなかったんじゃないのかな。手紙の中にはそれは言い過ぎだろうというようなことも結構あるんじゃないかと思う。
だからそういう言葉を使う背後にあるパウロの怨みとか嘆きとか、そんなことも含めてこの手紙を読んでいけばいいんじゃないかという気がする。冷静に喋っている時と興奮して喋っている部分があるような気がするけれど、そんなことも感じ取りつつ読んでいけばいいんじゃないかと思う。それでこそパウロの熱い思いがよく分かるんじゃないかと思う。
手紙の背後にあるパウロの思いを、なんとかキリストとつながっていてほしいという思いを汲み取っていくことこそが大事なんじゃないかな。
そこでパウロの熱い思いを知ることができ、パウロをそういう思いにさせたイエスの熱い思いを知ることができるのではないかな。