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礼拝メッセージより
「心の中で出会う」 2025年5月11日
聖書:ガラテヤの信徒への手紙 2章15節-3章6節
聖書はこちらからどうぞ。
(日本聖書協会のHP)
テレビ
小学3年位の時だったに我が家にカラーテレビがやってきたような記憶がある。その地域では割りと早い方だったように思う。そのせいではないけれど根っからのテレビ少年だった。学校では1日1時間だったか2時間だったか、それ以上見てはいけませんというようなことを言われていたけれど、大体毎日もっと長い時間テレビ見てた。
そんなテレビっ子だったのに、最近はテレビよりインターネットを見てることの方が多くなってしまった。このごろはテレビでもネットでこんな情報があったというようなことを放送しているみたいだけれど、ネットの方がいろんな情報がいっぱいある。それにネットだと普通にパッと見れる情報を、テレビだと「驚きの」とか「衝撃の」なんて余計な字幕をつけて勿体ぶって、しかも肝腎のところを隠したり映す前にコマーシャル入れたり、芸人のびっくりする顔を入れたりしている。そういうのが鼻についてしまってというか、見てる側がバカにされてるような気がする。それにワイプとかいうそうだけれど、映像を流すような時にも、スタジオにいる人の顔を無意味に隅の方に写しているのが邪魔で邪魔で仕方なく感じている。そんなこともあって昔はあんなにテレビばかり見てたのにだんだんテレビ離れが進んでいる。
ネットを見ていると、世の中にはいろんな苦しいことや大変なことを経験している人がいっぱいいるんだなと改めて思わされる。
以前見た中で、自分の兄夫婦が交通事故でいっぺんに亡くなってしまって、残された幼い娘二人をどうするかと揉めたけれど、結局自分達夫婦が引き取ったという弟の話しがあった。引き取った娘の妹の方は割りと早く自分のことをパパと言ってくれたが、姉の方はなかなか言ってくれず、結婚する時に手紙をくれて、その時に初めてパパと書いてあったなんて話しがあった。親と一緒に暮らすのが当たり前のように思っているけれど、そうじゃない人たちも大勢いるんだなと改めて知らされた。
パウロ
今日もガラテヤの信徒への手紙だけれど、パウロの言うことはわかりにくいなと思う。パウロは頭が良すぎて、ぼんくらな自分には分からないのかなという気がしている。
アブラハム
ガラテヤの教会はパウロが伝道してできたような教会のようだけれど、パウロの去った後からガラテヤにやってきた者たち、ユダヤ人キリスト者のようだけれど、異邦人も割礼を受けなければいけない、律法も大事だと、律法も守らないと救われないと伝えていて、ガラテヤの教会の人たちがその教えに従うようになったようだ。
パウロはそのことに真っ向から反対する。そのための手紙みたいだけれど、その中で何よりも信仰が大事だという。
そこでパウロは律法より前に信仰があることをアブラハムの話しを出して語る。
アブラハムは「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(創世記12:3)と言う神の言葉を聞き、故郷であるウルからカナンの地へと旅だった。そして自分の子供が生まれる前に、あなたの子孫は星のように多くなるという神の約束を聞き、「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)と書かれている。
律法はアブラハムよりももっと後のモーセの時代に与えられたと書かれている。律法が与えられるずっと前に生きていたアブラハムだったが、そのアブラハムは神の言葉を信じたことで義と認められているじゃないか、とパウロは語る。律法を守ることで義と認められるのではなく、信じるだけで既に義と認められるのだと言うわけだ。
あなたがたはイエス・キリストを信じた、そのことですでに義と認められているのに、どうして律法によって、割礼という身体にしるしをつけることで完成させようとするのかと言っているようだ。そのことを「霊によってはじめたのに肉によって仕上げようとする」と言っているようだ。
神の子
信じることでもうすでに義とされている、つまり神との正しい関係を持つ者とされている、すでに神の子とされているということだ。今から努力して神の子となるのではない、神の子となるためにしなければならない何かがあるわけではない、もうすでに神の子とされているんだから、とパウロは言っているのだと思う。
もう完全に神の子とされているのか、それとも今から神の子を目指すのか、あるいは神の子であり続けるために何かをしないといけないのか、そこが根本的な違いなんだろうと思う。
最初に話した弟夫婦に引き取られた子供達のことと似ている気がしている。もうすでに弟夫婦の子供とされている。けれど子供自身がそのことを受け入れるかどうかによって生き方が変わってくるだろうと思う。子供にされたことをただただ喜んで感謝して生きていくのか、あるいはそれだけではダメだ、子供とされるために、子供とされ続けるために立派にぬかりなくていないといけないという気持ちで生きていくのか、その違いは大きいだろうと思う。
パウロは、あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのですと語る。あなたたちはもう神の子とされているのだ、これから何かをしてはじめて神の子とされるのではないし、何かを立派にこなしてない、律法を守って、割礼を受けないと神の子でなくなるわけではない、そのことを受け入れる、認めるだけ、信じるだけだ、と言っているようだ。
足りない?
でも私も何かが足りないじゃないか、と思うことが多いのではないか。
ある牧師が、「信仰が熱心なのは、もちろん悪いことではありません。しかし、ともすると、自分の信仰の熱心さが信仰生活を測る物差しのようになってしまうことがあるのです。そして、いろいろな出来事が起こったとき、自分の信仰の度合いによって判断してしまうことがあるのです。物事がうまくいけば、自分に信仰があったからだと思い、物事がうまくいかないと自分の信仰が弱いからだとか不信仰だからだ、と落ち込んでしまうのです。自分の信仰の出来不出来が人生の完成に影響があるように錯覚してしまうのです。それでは、パウロに「御霊で始まったあなたがたは、肉によって完成していようとしていませんか」と言われてしまうでしょうね。」と書いてあったけれど、確かにそうかなと思う。
私たちも神の子とされるためにまだまだ足りないとか、こんなことではだめだと思うのではないか。誰かにそんなこと言われたら、思い当たることがありすぎてそうかもしれないと思ってしまう。
けれどイエスはそんなこと言っていない。不完全な不信仰な私たちだ。しかしそんな私たちをイエスはそのままに、全面的に受け止めてくれている。
なにかにつけてまだまだ足りないと思ってしまう私たちのことを全部知った上で、イエスはそんな私たちを全面的に受け止めて神の子としてくれているのだ。だからこそそのことを揺るがすことにパウロは真っ向から反対しているのだと思う。
もうすでに義と認められている、神の子とされている、イエスはそのことを伝えてくれた、命をかけて伝えてくれた、だからそのことを否定するようなことには断固として反対する、パウロのそんな強い意志を感じるような気がする。
パウロのその強い思い、それはイエスの強い思いにも通じるような気がしている。その強い思いをしっかりと聞いていきたいと思う。