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礼拝メッセージより
ふるさと
イエスの弟子たちのふるさとはガリラヤである。復活のイエスはそのガリラヤで弟子たちと会ったと聖書は告げている。
弟子たちはイエスの呼び掛けに答えてイエスに従っていった。仕事を捨ててついていった。弟子たちにとってそれまでの人生がどういうものだったのかよく分からない。十分満足できる人生を送ってきたわけではなかったのではないかと思う。こんな田舎で燻っていたくはない、あるいはこんなつまらない人生はもういやだというような、そんな別の人生を生きたいという願いを持っていたんじゃないのか、だからすぐにイエスに従っていったのではないかという気がしている。ところがそんな人生をかけてついて行った師匠がこともあろうに十字架なんぞにつけられて殺されてしまった。
やがては立派になって故郷に錦を飾る、なんて気持ちも持っていたんじゃないかと思う。誰もが賞賛する立派な先生の弟子、偉大な指導者の弟子として、いつかは堂々と故郷に帰るなんて気持ちも持っていたんじゃないかと想像する。
しかし彼らは十字架を前にしてイエスが捕まるとみんな逃げてしまった。どこまでもついていきます、死んでもついていきます、なんてことも言いながら、最後にはそんな人は知らないと言った弟子もいた。師匠が処刑されてしまった、さらにその師匠を見捨てて逃げてしまった、弟子たちは誰もがそんな挫折感を味わっていただろうと思う。
復活
復活の朝、イエスは墓にやってきた婦人達に対して、弟子たちにガリラヤに行くように、そこで会うことになると言いなさいと告げたと書かれている。
弟子たちにとって故郷であるガリラヤに帰ることは結構つらいことだのではないかと思う。偉くなって錦を飾るどころか、「イエスなんていう変な奴についていくからこんなことになるんだ」と言われかねない状況になってしまった。弟子たちの落胆は相当なものだったことだろう。
しかしそのふるさとのガリラヤで弟子たちは復活のイエスと再会したと書かれている。イスカリオテのユダを除く11人の弟子たちはイエスが指示していた山でイエスに会った、しかし疑う者もいた、なんて書かれている。
都落ち
この時弟子たちにとってガリラヤに帰るということは、まさに都落ちだったのではないかと思う。落ちぶれて逃げ帰るというような気持ちだったのではないかと思う。
ガリラヤは弟子たちにとってふるさとであり、またイエスと出合い、イエスと共に生きた場所でもあった。ガリラヤに帰ることで、弟子たちは、かつてイエスの姿、イエスの声を思い出したに違いないと思う。ここであんなことがあった、ここではこんなことを語っていたというように、そこで改めてかつてのイエスの姿を見直し、イエスの声を聞き直したのではないかと思う。そうすることで弟子たちは元気になってきたのではないかと思う。復活のイエスに出会うとはそういうことだったのではないかと思う。
出直し
師匠を見捨てて逃げてしまうという挫折を経験した弟子たちだった。けれどそんな傷を負ったことで、そんな自分の弱さを知ることで初めてイエスの言葉の意味に気付いていったのではないかと思う。
そのイエスの姿、イエスの声は聖書にまとめられて私たちの元へも届けられている。挫折し傷を負った者を力づける言葉がこの中にまとめられている。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる、弟子たちはイエスのその言葉を聞きつつ、その後の人生を歩んでいったのだろう。
強く立派な部分だけではなく、弱く惨めな醜い部分も含めて、そんな自分を丸ごと受け止め認めてくれている、弟子たちはそんなことを知ったから、立ち上がっていけたのだろうと思う。
再起
聖書の語るガリラヤとは、自分の弱さ醜さや駄目さやだらしなさ、決して人に見せられない汚さ、そんな自分を見せつけられるところなのではないかと思う。自分の失敗や挫折を思い出させる場所でもあるのではないかと思う。裸のありのままの自分を見つめるところ、そこが聖書が告げるガリラヤではないかと思う。
しかしまさにそんなガリラヤで私たちもイエスに出会う、イエスはそこで待っている、そこにいてくれているのだと思う。聖書は醜さや駄目さや弱さを持った、ありのままの自分と、イエスは世の終わりまで共にいると告げているのだと思う。この自分をイエスは全面的に受け止めて認めてくれているということなんだろうと思う。