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礼拝メッセージより
イースター
今日はイースター並びに召天者記念礼拝です。召天者記念礼拝と言っても、亡くなった方を拝むことはしません。また亡くなった方のために祈る、冥福を祈ることもしません。浄土真宗でも既に冥土にいるのだからそれを祈る必要はないから冥福を祈らないと聞いたことがありますが、それと似てる気がします。すでに神の下に召されているわけで、祈る必要がないと考えています。今日は先に召された方のために祈るのではなく、召された方たちが聴いてきた聖書の言葉を一緒に聴いていきたいと思います。
先に召された方たちがかつて、慰められ癒され励まされ力付けられた、そんな聖書の言葉を聞いて、私たちも同じように慰められ励まされたらいいなと願っています。
しかし先に召された人達のことを思い返すということは、その死を思い返すということでもあり、別れの現実を思い返すという辛いことでもあると思います。
牧師として初めて赴任した教会は釧路の教会でした。そこに僕と同じ世代の夫婦がいました。
10数年前、彼の奥さんのお兄さんから、その彼が急性心臓病で職場で倒れて突然亡くなったとメールをもらいました。うそだろ、なんだそれ、いかんじゃろって思いました。50歳だったそうです。
旦那は教会員ではなかったのですが、旦那は妻も両親も教会員だったこともあってちょくちょく教会に来ていました。当時旦那は市役所の水産科に勤めていて、時々お裾分けを持って来てくれたりしてました。取れたてのししゃもを一ケース持って来てくれたことがありました。どうすりゃいいのかと聞くと、クリーニングの時にもらうワイヤーのハンガーにさして、干せばいいと教えてもらったこともありました。
スキーの板をくれて、生まれて初めてのスキーにも連れて行ってくれました。それ以来時々自分ひとりでスキーに行くようになりました。
奥さんがそうしろと言っていたのかもしれませんが、見知らぬ土地にやってきた僕たち夫婦のことを気にかけてくれていて、さりげなくいろいろと誘ってくれて、気を使わなくていい間柄でした。
彼は牧師としてではなくて友達として見てくれて接してくれてたような気がしています。釧路を離れてからも時々メールのやり取りもしていました。
突然亡くなったという知らせを聞いてから、急にいろんなことがよみがえってきました。
近しい人の死に接することはほんとにショックです。まして思いもよらぬ死だと余計にそうでしょう。
ショック
イエスの十字架に際し、弟子たちも同じように大変なショックだったに違いないと思います。
師匠であったイエスが十字架で処刑されてしまいました。偉大な王になるというような、結構的外れな期待をしていた弟子たちもいたみたいだですが、少なくともイエスに魅力を感じて、人生を託してついてきていた弟子たちでした。社会を変える、新しい何かが始まる、そんな期待をしてきていたであろう弟子たちにとって、そのイエスの十字架の死は突然未来が断ち切られたようなショックな出来事であったに違いないと思います。
自分達の師匠が犯罪人として処刑されてしまい、自分達も犯罪人の弟子となるという危ない立場に立たされてしまってもいるわけです。聖書には男の弟子たちは十字架を前にしてみんな逃げたと書かれています。自分の身のまわりに何が起こっているのか分からない、これから自分がどうすればいいのかも分からない、ただうろたえるしかないような状況で、ただ逃げ出すしかなかったのでしょう。
ところが、そんな絶望的な状況であった弟子たちが、その後イエスこそがキリストであると堂々と伝え始めたと書かれています。十字架の後、逃げ隠れしていた弟子たちも、いろんなことを思い出していたに違いないと思います。かつてのイエスの姿がよみがえってきていたことと思います。イエスの言葉を改めて噛みしめていたのだと思います。そして弟子たちはその言葉に慰められ、励まされていったのでしょう。実はそれが復活のイエスとの出会いだったのではないかと思います。
復活
今日は教会の暦ではイースター、復活節となっている。どうして今日なのかというのは、紀元325年というから今から1700年位前のニカイア公会議とかいう会議で、春分の日の後の満月の次の日曜日ということに決まったそうで、一応それに倣っていて、それで毎年日付が変わってしまっています。
しかし聖書でいう復活ってどういうことなんでしょうか。僕もかつては素直にというか単純に聖書に書いてあるようにイエスが生き返ったのだと思っていました。墓の中に寝かされていたイエスが生き返り、むくむくと起き上がってきたというようなイメージでした。
聖書にはいろんなことが書かれています。その後イエスが食事をしたとか、傷跡を触ってみろと言って肉体があるようなことが書かれていたりする、かと思うと戸締まりをしている家に入ってきたり、食事中に急に消えてみたりというふうに肉体を持たない、まるで幽霊でもあるかのような感じで書かれていたりもします。復活ってなんなんだろうとずっと思っていますがなかなかはっきりしません。
ある時『私にとって「復活」とは』という本が出版されたことを知って読んでみました。何人かの人の話しをまとめられた本でしたが、イエスの復活はこうであった、こういうふうに復活した、なんて説明はありませんでした。
どうしたものかと思っていましたが、しばらくして気が付いたことがありました。それは題名の『私にとって「復活」とは』とあるように、どうも復活とはその人その人にとって違ってくるものであるようだということでした。つまり復活とはこういうことですよ、と物理現象のように万人がみんな共通して認識したり理解したりできるようなことではないらしいということです。イエスの復活とは、イエスの遺体が生き返って、むくむくと墓から起き上がって、誰もが目に見えるようにみんなの前に現れたということではないようだということでした。
ガリラヤで
今日の聖書の箇所では天使が現れて、復活のイエスとガリラヤで会えると告げています。ガリラヤとはイエスと弟子たちが出会った場所、かつてイエスと生活を共にし、イエスの振る舞いを見てイエスの言葉を聞いていた場所です。そのガリラヤでまた会えるというのは、かつてのイエスの姿、イエスの語った言葉を思い返すこと、そうすることでイエスと会えるのだということを伝えているのではないかと思います。
よみがえる
イエスは病気や障害を持つ者、社会から除け者にされ差別されてきた人達、生きることに希望を持てないで絶望しているような人達のところへ出掛けていき、寄り添ってきました。そんな人達の絶望や悩みや嘆き、そんなものを含めてその人そのものを受け止めてきたようです。そうすることで彼らには生きる力が与えられ希望が与えられてきました。
弟子たちはそんな苦しみ絶望する人達に相対するイエスの姿を、かつては後からあるいは横から見てきていました。しかしそのイエスの十字架の死を目の当たりにして、今度は弟子たちは自分達が未来を断ち切られて絶望する側になってしまいました。
あわてて逃げだしうろたえていた弟子たちは、改めてかつてのイエスの姿、イエスの語った言葉を少しずつ思い出してきたのだと思います。自分達が苦しい状況になって、イエスの生き様やイエスの語る言葉が身に染みてきたのだと思います。幻かもしれませんが、弟子たちにはイエスの姿が本当に見えたのかもしれないと思います。
かつて弱く小さく傷ついている者に寄り添い、そんな人たちに語りかけていたイエスの言葉を、その時弟子たちは自分に向けて語りかけている言葉として聞いたのだと思います。そしてその言葉によって逃げていた弟子たちは元気と勇気を与えられていき、今度は堂々とイエスのことを伝えるものとなっていきました。
それこそが復活のイエスとの出会いだったのだと思います。
先に召された方たちも、肉体の目でイエスを見たわけではないけれども、イエスの言葉に触れ、力付けられ慰められて生きてきたのでしょう。
「明日のことまで思い悩むな」、「求めなさい、そうすれば与えられる」、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」、そんなイエスの言葉を支えとして生きてきたのでしょう。
先人たちを力付け慰めたイエスの言葉を、私たちも聞いていきたいと思います。その言葉と共にイエスはそこにいてくれています。