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礼拝メッセージより
マザーテレサ
ここを読むといつも昔見たマザーテレサの映画を思い出す。その映画の中で、マザーテレサがインドで死に行く人の世話をしているという内容だったと思う。その映画の中で、どうしてそういう人の世話をするのかという質問にマザーテレサが、この人達の世話をすることはキリストにしていることなのだ、というようなことを言っていた。
それを聞いた時に、何じゃそりゃと思った。死に行く人の世話をすることをキリストが喜ぶことだからとか、そうすることがキリストに従うことだから、と言うのならば分かる気はする。でもその人たちにしていることがどうしてキリストにしていることになるのか、この人は一体何を言っているんだろうと思った。
だいぶ後になってからマタイの福音書の今日の箇所を読んで、だからマザーテレサはあんなことを言ったんだろうなと思った。
いつ?
今日の聖書箇所は小見出しに「すべての民族を裁く」となっていて、人の子が栄光に輝いて天使たちを皆従えて栄光の座に着くときに、すべての国の民を右と左に分ける、というような話しになっている。人の子とはキリストのことを指しているようで、最も小さい者の一人の世話をし、親切にし、助けたりしたことは、それはわたしにしてくれたことなのだ、と言われている。
しかし最も小さい者のひとりにしたのはキリストにしたのだ、と言われても、マザーテレサのように、キリストにしているのだとなかなか思えないなあと思う。
小さい者
申命記15:9『「七年目の負債免除の年が近づいた」と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。」という箇所に関するミドラーシュという注解の中に「わたしの子らよ、もし君たちが貧しい人々に食べるものを与えたなら、わたしはそれを、君たちがわたしに食べるものを与えたかのように、君たちの勘定につける」という文章があるそうだ。
貧しい人々に食べるものを与えた時は、それを神に与えたことにすると言っているようだ。貧しい人々に親切にすることは神にすることに値すると言っているようだ。
困ったことがあったときに親切にしてもらったり助けてもらったときに、助けてくれた人にお礼をしたいと申し出ると、あなたが困った人に会ったときにその人を助けてあげて下さい、なんてことを言われたという話しを聞くことがある。
同じように最も小さい者のひとりにすることはキリストに対するお返しなのかもしれないと思っていた。キリストが私たちを憐れみ愛し、私たちに必要なものをすべて与えてくれている、だから私たちも隣人を愛し、隣人に配慮する。それはキリストに対するお返しのような、そういうことかなと思っていた。
炊き出し
4年前の聖書教育に、『アイヘンバーグの木版画「炊き出しの列に並ぶイエス」をインターネットで検索して、参考にしてみましょう。』とあって検索してみたことがあった。
よれよれのコートを着て疲れ切ったような人たちが、皆下をむいて寒さをこらえるようにして一列に並んでいる。その列の中にマントを羽織ったイエスがいるという木版画だ。
この版画を見て、びっくりというか衝撃というか、心がザワザワするような感じがした。
今日の聖書の「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」という言葉から、キリストは天にいるけれど、最も小さい者の一人を大事にすることは天に通じることである、ということかと思っていた。「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、・・・」というのも、キリストに対してしている気持ちでしなさいということだと思っていた。
でもこの版画のように、キリストはまさにそこにいるということなのかもしれないという気になってきている。
マザー・テレサが、自分はキリストの世話をしているんだと言ったというのも、キリストに対するのと同じ気持ちを持って、ということではなく本当にキリストを相手にしていると思っていたのかもしれないという気がしている。
イエスは一番大事な掟は神を愛し隣人を愛することだと言った。今日の話しを加味すると、神を愛することと隣人を愛することは別々のことではなくて一つのことということになるようだ。神を愛することは隣人を愛することであって、隣人を愛することが神を愛することということになりそうだ。
ここにいる
キリストは最も小さい者の気持ちがよく分かっているだけじゃなくて、最も小さい者と一緒にいる、まさにそこにいるということのようだ。
飢えて、のどが渇き、宿がなく、裸であり、病気になり、牢につながれる、うちひしがれて生きる望みも失っている、キリストはそんな者と一緒にいる、そしてそこにいて、その人たちと一緒に苦しみ、悩んでいるということなのかなと思う。
では私たちはどうすればいいのか。
炊き出しのボランティアもしてないし、困っている人のために何もしてなくて、これじゃ永遠の罰を与えられそうな気持ちになりそうだ。
マザー・テレサのこんな言葉を見た。
「世界平和のためにできることですか?家に帰って家族を愛してあげてください。」
最も小さい者のひとりなんて言われても誰のことかと思うけれど、一番近くにいる小さい者は家族かなと思う。そして教会の仲間、あるいはいろんな仲間、そんな家族や仲間、隣人を愛すること、大事にすること、それがイエスを愛することでもあるんだろうと思う。
隣人を愛することがイエスが一番大事なことだと言われていたことであり、同時に神を愛することであり、それがイエスに従うことでもあるんだと思う。
なんて思っていたけれど、最近は自分自身が大事にされないといけない側というか、大事にして欲しい側、まさに炊き出しに並んでいるような気分でいる。
教会のことも、家のことも片付けないといけないこと、やらないといけないことがいろいろあるのに、どうなるんだろうか、大丈夫なんだろうかと心配ばかりしている。そのくせ何も動かない自分を自分で嘆いている。
飢え、渇き、宿をなくし、裸になり、病気になり、牢につながれてはいないけれど、だらしない自分を卑下し、生きることもままならないような気持ちになることがよくある。
でもイエスは今まさにここにいるということなんだろうか、件の版画を見ながらそんなことを思っている。
こんなだらしない自分のすぐそばにもいてくれているんだろうか。きっとそうなんだろうな。でも真後ろにいると分かりづらいんだよなあ。