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礼拝メッセージより
搾取
イエス一行はエルサレムにやってきた。そして神殿の境内に入りそこで商売をしている者の商売道具をひっくり返したという話しだ。
エルサレムの神殿は、中心に「至聖所」があり、一番近くに「祭司の庭」、その次に「イスラエル人の庭」、「婦人の庭」、「異邦人の庭」があった。異邦人の改宗者は「異邦人の庭」までしか入ることができなかったそうだ。
神殿の境内に入ると一番外側に「異邦人の庭」というのがあり、そこに許可を受けた商人、両替屋などがいたそうだ。異邦人の庭の大きさは450m×300mというかなり広い場所だったようだ。
商人はぶどう酒、犠牲のための動物など祭儀に必要なものを売っていた。両替人は外国の貨幣を神殿奉納に指定されていた古いヘブライの貨幣であるシケルと交換した。当時はローマの貨幣が流通していたので、外国に移住していた人たちにはヘブライのお金はあまり持っていないだろうし、それも昔のお金となるとそれを用意するのは大変だっただろうから、そういう両替人がいることで助かっていたのかもしれない。
また神殿は犠牲を献げる場所であるわけだけれど、犠牲のための動物を遠くから持ってくるのも大変であるし、神殿のすぐそばで買うことができれば面倒もなくて都合がよかったのだろう。そして犠牲をささげるときには完全で傷がなく、汚れがないものでないといけないということになっていて、自分で動物を連れてきた場合には検査官が検査をして、不合格になると献げ物にはできなかったそうだ。そこで神殿の境内で検査済みの動物を買った方が面倒がないということになり、そこに神殿公認の商人がいたようだ。しかし神殿の公認をもらうために商売人がどんなことをしたのか、は詳しくは分からないけれど、どこの国でもそういう時には賄賂を送ったとか接待したとか何とか言う話になってきて、その分高額なものになっていて、それが商人の儲けにもなっていたようだ。
イエスは神殿で怒り狂ったような振る舞いを見せているが、商人にだけ怒っているのではなくて、そのことによって一部の特権を持ったものだけがいい思いをしていること、そのために一般庶民から搾取している、そういうことに対しても怒ったのだろうと思う。
そこでイエスは「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」と書いてあるじゃないかと言っている。これは旧約聖書のイザヤ書の56:7に「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」と書いてあるということを言っているようだ。
マルコの福音書をみると、祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いてイエスをどう殺そうかと相談したと書いてある。イエスの言葉が図星だったということだろう。いたいところを突かれて頭に来たといったことかもしれない。自分達の利権を守るためには邪魔者を始末しなければという思いだったのだろう。
こども
境内では子どもたちまで「ダビデの子にホサナ」と叫んだという。ホサナとは「救って下さい」という意味だそうだ。
これを聞いて祭司長たちや律法学者たちは腹を立てたという。彼らにとっては自分たちの作っているシステムを非難されてしまった。そして自分たちが認めている商人や両替人、そして自分たちのことも強盗呼ばわりされてしまった。その上イエスが子ども達からも、ダビデの子にホサナ、なんて呼ばれて英雄のような扱いを受けていることにすっかり腹を立ててしまったようだ。子どもがうるさくしているのが聞こえないのか、神殿では黙らせなさい、ということなのかもしれない。子どもを黙らせて、私たちの教えているように犠牲をささげなさい、それが神殿でのルールなのだ、と言いたいのだろう。
それに対してイエスは、「幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた」という言葉を読んだことがないのか、と切り返した。これは詩編8:2-3「主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます。幼子、乳飲み子の口によって。」のことのようだ。
祈りの家
神殿が本来の神殿となっていないことにイエスは腹を立てたのだろうか。犠牲を献げることで罪を赦してもらうというユダヤ教のシステムを全肯定していたんだろうか。神殿は祈りの家だ、神殿こそ祈りの家だと言いたかったのだろうか。もちろん純粋に祈れる場所であって欲しいという思いはあったとは思うけれど。
それよりも、神殿は祈りの家だと言いつつ、祭司や商売人ばかりがいい思いをして、逆に民からは搾取し苦しめている、イエスはそのことにこそ怒っているような気がしている。神殿が祈りの家じゃなくなっているという宗教的なことよりも、宗教の名を借りて庶民を苦しめている神殿のシステムに怒りを発しているような気がしている。イエスの振る舞いは民の苦しみに共感しての行動だったんじゃないかという気がしている。
教会
神殿が本来祈りの家であるように今の教会も祈りの家であるべきだ、という話しかと思っていたけれど、もちろん教会は祈りの家であるべきだと思うけれど、それよりも人の苦しみや悲しみや痛み、そういうことに寄り添うこと、それこそが教会が大事にするべきことなのかもしれないと思う。
ここに来る人の苦しみや悲しみや痛みや嘆き、そんなものを見ていないなら、感じていないなら、寄り添っていないなら、それはイエスの生き方とはかけ離れたものになってしまうのではないかと思う。
隣人の苦しみや悲しみや痛みや嘆き、そういうものに寄り添うこと、それこそが隣人を愛するということでもあるのだと思う。そしてそれがイエスに従うということでもあるのだと思う。