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礼拝メッセージより
報酬
今日の聖書は不思議な話しだと思う。
普通働いた報酬ってのは、働いた分に応じてということが考えられている。働いた量か、あるいは働いた時間に換算されることがほとんどだと思う。パートやアルバイトは働いた時間に応じて給料を貰っていることがほとんどだと思う。当時は夜明け6時位からから日暮れの6時位まで12時間位働くというのが普通だったようだ。それだけ働いて一日分の日当を貰うということになるわけだ。
1デナリオン
今日の聖書のイエスのたとえでは、主人が夜明けに一日1デナリオンの約束で労働者を雇った。1デナリオンは一日の賃金。一日を生きていくための賃金。今の日本で言えば1万円位だろうか。
主人は9時と12時と3時にも同じように労働者を雇い、5時からもまた雇った。9時の時には1デナリオンとは言わずふさわしい賃金を払ってやろうと言っている。その後は賃金の話しは出てこないけれど同じように言ったということなんだろう。
そして夕方になって報酬を支払う時が来ると、5時に雇われた人から順番に支払われた。その人に1デナリオン支払ったという。5時から働いて一日分の給料を支払ったというのだ。
3時の人も12時の人も9時の人もきっと1デナリオンずつ支払ったのだろう。そして夜明けから働いた人にも支払ったが、やっぱり1デナリオンだったというのだ。そこでその人たちが、朝から暑い中を働いたのに、夕方からしか働かなかった奴らとどうして同じ給料なのか、と文句を言ったというのだ。
そりゃそうだろう、という気がする。5時から働いて1デナリオンなら、時給が1デナリオンということになって夜明けからだと12デナリオンくらいになるか、そこまでいかなくても5時からの奴と同じってことはないだろうと思うだろう。働いた時間に比例して報酬が支払われるとしたらそうなるのが普通である。時間に応じて報酬が増えるというのがこの世の習わしから言えば到底納得できないことだ。
しかし天の国ではそうではない、とイエスはいうのだ。天の国では、その日雇われた者は何時に雇われてもその日一日の給料が貰えるというのだ。その日生きていくのに必要なものが与えられるというのだ。そして後にいる者が先になり、先にいる者が後になる、と言うのだ。
先、後
天国泥棒というような言葉があるそうだ。
歳を取るまでは勝手気ままに生きていて、死ぬ直前に天国行きの切符を貰うのが一番得策だ、というような考え方のことらしい。神を信じるということが、天国に行くために神の命令に従う面倒な生き方をしなければいけないということならば、死ぬ間際に信じることが一番面倒がないということになる。
神を信じて生きるということが、死んだ後に天国に行くために戒めを守って本当はしたいことも我慢して生きることであるならば、確かに出来るだけ好きなことをして死ぬ間際に信じますと言って天国行きの切符を手に入れればそれが一番うまい生き方かもしれない。神を信じるということが難行苦行、ただ辛いばかり、ただ苦しいばかり、苦しみに耐えることばかり、というのであれば、死ぬ寸前まで自由に生きて、死ぬ間際に信じるというのが一番効率的な生き方ということになるだろう。
しかしイエスのいう天の国はそういうものではないようだ。天の国は私たちのただ中にある、神と出会うところが天国である。自分の居場所を見つけられること、自分がいてもいいのだという場所を与えられること、そこが天の国なのだと思う。やるべきことを与えられず、見つけられないということは辛いことだ。自分の居場所が定まらない、見つけられないことは苦しいことだ。
その日一日の賃金の当てのないままに時間を過ごしていくことの方が、暑い中とはいえ、賃金を約束された上で働くよりもきっと辛いことだろう。その日の仕事がないことでその日生きていくためのお金を得られなくなってしまうわけだ。今日は全く収入がないのかという不安を抱えたまま夕方を迎えるということは大変辛いことだ。夜明けに雇われて働くのは確かに肉体的には大変だろうけれど、その日の収入の心配をすることなく1日を過ごす方が辛いことのようにも思う。
天の国とは、その日の賃金を保障されて、安心して働くようなものなのだ。安心して生きていくところなのだ。朝から安心していられるか、夕方になって安心するのか、それは人それぞれということになる、しかしどちらにしても一日の賃金は保障され支払われるということだ。天の国とはそういうところであると言っているようだ。
最後の者にも
この話しは、ファリサイ派や律法学者たち、に向けてのたとえだろうという解説をしている人がいて、きっとそうなんだろうなと思った。
自分はこんなに神に忠実に従っている、こんなに神の命令を一所懸命に守っている、だから当然あいつらよりもいっぱい報酬がもらえるはずだと思っていると思っている、そんな私たちへのメッセージでもあるのかもしれない。
そもそも5時に雇った人から先に報酬を渡すというのがおかしい、というか面白い。わざわざみんなに知らせなくてもこっそり渡せばいいんじゃねと思う。
でもあえて知らせたかったということなんだろう。
最後の者にもあなたと同じように支払ってやりたいのだということをみんなに知らせたい、これが神の意志だと言いたいのだと思う。
これを読むとき自分は早朝から働いてきた者のような気持ちでいるので、ねたむ気持ちになる。おかしいだろうと。でも自分が5時に雇われた側だとしたら、それで1日分の給料をもらえたらどんなに嬉しいだろうかと思う。
その喜びをみんなに知らせたい、みんなもそこで喜んで欲しいということなんじゃないかと思う。
神は最後の者をも大切に思い見守ってくれる、その喜びを分かち合う、それこそが天の国だと言っているのではないだろうか。
だから、私はこんなに頑張ってるのになんてカリカリするなよ、しかめっ面しないで、もっと楽しく気楽に生きていけよってことかもしれないと思う。