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礼拝メッセージより
教え
ユダヤ教の人たちは安息日(土曜日)に、会堂(シナゴーグ)で聖書(律法)の言葉を聞いていた。イエスもユダヤ教の教えにそって会堂に入って人々に教え始められた。しかしイエスの教えは律法学者のような、それは多分律法の解釈、これはしていいとかしてはいけないとかいうようなものだったのではないかと思うけれど、そんな律法学者が解釈するような話しではなくて、権威ある者として教えたという。聴衆に迫ってくるような、心に響いてくるような話しだったんだろう。
実際この時イエスが何を教えたかは書かれていない。1章15節の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という、伝道の最初に語った言葉をここでも語ったのではないか。
その最初の言葉はどういうことだったか。それは神の定めた時はきた、もうすでにやってきた、神との直接の交わりを持てるときは来た、だから悔い改めて神のほうに向き直りなさい、神の方を見なさい、そしてこの福音を信じなさい、というものだった。この時もそんな話しをしたのではないかと思う。
終末はまだ来ていない。神の支配が完成するという終末はまだ来ていない。けれどもその終末はもう始まっている。完成はしていないが、もうすでに始まっている。イエスが来て、神を顕し、神が今ここにおられることを示してくれたからには、終末という神の時はすでに始まった。神の国はもうここに来ている。だから悔い改めなさいと言われているのだろう。
神は悔い改めることを求めているが、それは裁くためではなく、限りない愛をもって罪を赦すためだなのだ。神はあなたを待っているのだから、神の方に向き直って神との関係を持ちなさい、ということだ。
悪霊
その時会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて、イエスはその汚れた霊に男から出ていくように命じ、汚れた霊が出ていったことが書かれている。
イエスの教えを聞いた人々の反応は「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」というものだった。
おもしろいことに人々は「新しい教えだ」と言った。「新しいわざだ」とは言わなかった。汚れた霊を追い出すのを見たすぐ後なのに、新しいわざだ、とは言わないで新しい教えだと言った。
イエスは病気を癒し、悪霊を追い出したと度々書かれている。いわゆる奇蹟と呼ばれるようなわざを次々と行ったようだ。でもイエスの活動の中心はあくまでも「教え」だった。神の国の福音を伝えること、福音を語ることが第一であった。
奇跡
奇跡の方に人は注目する。ときどき超能力者と言われるような人がテレビにも出てくる。
昔スプーン曲げというのがはやった。僕が子どものころ。何とかできないものかとスプーンをなでたりした。一所懸命。でも曲がらなかった。曲がったらみんなに威張れるのにと思いながらだったが、そんな邪念があるからできないんじゃないのかと思って、無心になろうとしたけれど、結局何にも起こらなかった。その時はかなり失望した。
でもだいぶ後になって、じゃあスプーンが曲がったとしてどうなんだろうと考えるようになった。そのことを威張ることは出来る。すごいねえと言って貰えるだろう。けれどそれで幸せになるわけでもない、その時はうれしくなったとしても一時の優越感があるだけで、それだけじゃないか、と思うようになった。超能力と言われるようなことができたらいいなと思うけれど、それができたからといってどうなんだと考えるとどうってこともないなと思う。
人に自慢するようなことよりも、心の中にふつふつと喜びが沸き上がるような、じわじわと心が暖まるような、そんなものを持つことの方がよっぽど大事なことなんじゃないかと思うようになった。
神の名によって病気を治せるようになることよりも、イエスとの関わりを持つこと、イエスの愛を受けること、そして愛する人間になること、そっちの方が余程大切なことなんだろうし、そっちの方がよっぽど嬉しいことなんだろうなと思う。
イエスのまわりに集まって来た大勢の人たちの中には、イエスのわざを見ようとしてやって来た人が大勢いたであろう。32節には病人や悪霊につかれたものを皆イエスのもとに連れてきたとある。しかし、そのことを通して人々はイエスの教えを聞いていったんではないか。人々はただ病気を治してもらいたくて、悪霊を追い出して貰いたくてきたのだろう。新しい教えを聞きたくて来た人はほとんどいなかったかもしれない。でもそこでイエスに会うことで、イエスの教えに触れることができた、福音に接することができたのだと思う。
私たちも同じだろう。みんないろんなきっかけで教会にきた。イエスの教えを聞きたいからと思って来た人もいるかもしれないが、そんなこと考えもしないで来た人もいるだろう。どんな理由で来たとしても、要はそこでイエスに出会うこと、イエスの教えに耳を傾けることが大事なのだ。
35節以下の所では、イエスのうわさを聞きつけて、大勢の人が集まってきていたことが書かれている。その時イエスは「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである」(38節)と言っている。イエス自身が宣教することが自分の目的であると言っている。イエスの活動の中心はやっぱり「教え」なのだと思う。
汚れた霊
この日イエスの正体を一目で見抜いたのは汚れた霊に取りつかれた男だったと書かれている。
当時は病気は罪の結果だと考えられていた。罪があるから病気になっている、病気であるのは罪があるということだと考えていたようだ。また今で言えば精神的な病気を持っている人は悪霊に取りつかれていると考えられていたようだ。
この男の人もそんな精神的な病気を抱えていたのではないかと思う。しかし実はそんな人が真っ先にイエスの本質を見抜いたということだ。イエスの言葉が一番響いてきたのではないかと思う。響きすぎたので構わないでくれなんて言ったのかな、なんて思う。
病気であったり、あるいはいろんな大変さを抱えている人こそが、誰よりもイエスの本質に気付くのかもしれない。
自分はおかしくない、まともである、正しく生きている、罪人ではないと思っている人よりも、病気を抱えたり、失敗したり、挫折したり、つまづいたり、そんないろんな弱さを抱えて苦しみつつ生きている人にこそ、イエスの言葉が一番響くのではないかと思う。
びっくり
人を傷つけ、傷つけられ、自分の弱さ、だらしなさにひしがれている、希望を失っている、まさに汚れた霊にとりつかれているような私たちのところへイエスは来てくれている。
そして私たちひとりひとりに、私たちの人生をひっくり返すようなびっくりする言葉、いろんなしがらみから私たちを解放するそんな言葉を語りかけてくれているのではないか。
人々はその教えに非常に驚いた、と書かれている。イエスの教えは驚きの教えなんだろうと思う。納得するよりもびっくりする教えなんじゃないかと思う。びっくりしないとしたら本当には聞いていないのかもしれないと思う。
びっくりしつつ、エッと思いつつ、何言ってんのと思いつつイエスの言葉を聞いていきたいと思う。その言葉を心で感じていきたいと思う。