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礼拝メッセージより
罪
パウロは2章の途中からユダヤ人と律法に関する話しを始めている。
ユダヤ人は律法を誇りとしながら律法を破っている、律法を破っているなら割礼を受けていても意味はない、外見上の割礼が大事なのではなくて心に施された割礼こそ割礼なのだなんてことを言っている。
そして3章の始めでは、ユダヤ人の優れた点についての話しになり、ユダヤ人は神の言葉をゆだねられたと語っている。その後の話しについてはよく分からないけれど、それに続けて今日の箇所では、わたしたちユダヤ人に優れた点はあるのか、全くない、ユダヤ人もギリシア人もみんな罪の下にあると語る。
聖書
そして、「正しい者はいない。ひとりもいない。・・・」と語り始める。
この括弧の中の言葉は詩編を中心とする旧約聖書だそうだ。
・10-12節
詩編14:1-3
神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。
14:2 主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
14:3 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。
詩編53:2-4
53:2 神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。
53:3 神は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
53:4 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。
・13節
詩編5:10
5:10 彼らの口は正しいことを語らず、舌は滑らかで/喉は開いた墓、腹は滅びの淵。
詩編140:4
140:4 舌を蛇のように鋭くし/蝮の毒を唇に含んでいます。
・14節
詩編10:7
10:7 口に呪い、詐欺、搾取を満たし/舌に災いと悪を隠す。
・15-17節
イザヤ書59:7
59:7 彼らの足は悪に走り/罪のない者の血を流そうと急ぐ。彼らの計画は災いの計画。破壊と崩壊がその道にある。
・18節
詩編36:2
36:2 神に逆らう者に罪が語りかけるのが/わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない。
醜い人間の姿が表現されている。しかし人間の本質というか性質というか、それはこういうものだと思う。誰もが心の奥底にはこんなものを抱えているんだろうと思う。しかも旧約聖書の言葉を連ねてこのことを語っているのは、旧約時代の人たちの見てきた自分達の姿でもあったということだろう。
罪の中へ
律法を与えられた自分達ユダヤ人であるけれど、それは決して自慢するようなことではなくて、逆に律法によっては罪の自覚しか生じない、自分達が罪の下にあることを教えられただけだと言っている。
パウロはユダヤ人であり旧約聖書にも精通していたようだ。そしてファリサイ派だったようで律法を大事にして一所懸命に守っていたようだ。そのパウロが、律法を実行することではだれ一人神の前で義とされないと言い、律法によっては罪の自覚しか生じないと言っている。
もともと旧約聖書で罪と言うのは律法を守らないことになると思うけれど、ここを見るとそれだけではなくて人間の持って生まれた邪悪な思いとか性質みたいなことも含まれているようだ。
パウロにとって罪とは律法を守らないというようなことだけではなくて、もっといろんなことを含んでいるようだ。つまり律法を守ればそれで解消できるような、解放されるようなそういうものではないもの、そういう重荷というかしがらみというか、そういうものを含めて罪と言っているようだ。そしてそれはほとんど産まれながらに持っているような人間の本質とでもいうようなもののようだ。だからこそその罪から無縁な者は誰一人いない、正しい者はいないと言っているのだろう。
だとすると全く救いようのない現実に嘆くことしかできないということになりそうだ。人間は罪の中に産まれて、罪に翻弄されて生きていくしかないかのようだ。あるいはパウロもそんな思いで生きてきたのかもしれない。そこから抜け出そうとして必死で律法を守ってきたのかもしれないと思う。律法によっては罪の自覚しか生じない、と言うのはパウロの思いそのものだったのかなと思う。
そんな時にパウロはイエスと出会ったのだろう。罪の自覚に満たされたパウロに復活のイエスが出会ったということなんだろうなと思う。
イエスは罪の中にやってきた、私たちの心の奥底にやってきたということなんだろうと思う。
失敗し挫折し、自分の無能さや無力さやだらしなさに打ちのめされている、そして自分の醜さやいやらしさをほとほと嘆いている、そんな私たちのところへイエスは来てくれたということなんだろうと思う。